作 ウィリアム・シェイクスピア
演出 ジョー・ヒル=ギビンズ
出演 サイモン・ラッセル・ビール/レオ・ビル
とても斬新な、というか大胆な演出だったー。10歳で王になり33歳で没したリチャード二世を、御年57歳(上演当時)の丸々したサイモン・ラッセル・ビールが演じることからして、意表を突く配役です。今までいくつか観たリチャード二世はどれも、線が細い、やや夢見心地の憂いをたたえた詩的風貌の、美しい男だっただけに😅
セットは、左右と後方をメタルっぽい壁で囲まれた空間。窓もドアもなく、無機質で冷たさを感じさせる密室です。オープニング、王冠を手にしたリチャードが、終盤(5幕5場冒頭)の独白をここで始めるんだけど、その独白では自分が幽閉されている牢獄を「世界」にたとえていますが、それを幕開けに聞くと、彼が今いる舞台自体が強固な牢獄に見え、そここそ彼が統べる世界イングランドだと言っているように聞こえます。
リチャードと王位簒奪者ボリングブルック以外の登場人物は、他の6人の役者がいくつも兼任。でも役者のはけ口がないから、そのシーンに出ない役者は壁にへばりつくなどしていて、自分の役になると衣装(稽古場で着るようなラフな洋服)も変えずにそこから動き出すので、誰の役なのかセリフで判断するしかありません。小道具は、安っぽい王冠と、決闘で投げつけるための手袋と、いくつものバケツに入った血と土と水😑
このように視覚的要素がミニマムなので却って会話が際立ち、朗読劇のように思えることも。それゆえ言葉の深い意味に気づいたり、セリフ、特に独白の美しさに聞き惚れたりと、シェイクスピアが第1級の詩人と言われることに改めて納得するという、想定外の感動を覚えました。
演出家が「袋の中のネズミたち」と言う通り、閉鎖的な空間で繰り広げられる男たちの出世争い、生存競争といった色合いが鮮明。狭い箱の中で彼らが右往左往ドタバタする光景は、後半には悲劇性が緊迫感をもって襲ってくるけど、同時に滑稽でもある。
テキストはかなりカットしてあり、リチャード対ボリングブルックの王冠をめぐる争いに焦点を絞っている。その王冠がちゃちなだけに価値があるようには見えず、それのために男たちが血だらけ泥だらけになっていくのを、観客は冷めた目で見て笑うのですねー😬
後半の庭師のシーンはきちんと出していて、イングランドをメタファー化した彼らのセリフの重要さを再確認。それをリチャードが聞いているという演出も、なかなか象徴的でした。庭師たちがここで彼に土と水をぶっ掛けるのは彼らの仕事として正しく、それはまた、リチャードがやがて葬られることを暗示する、印象深いシーンだった。
サイモンのリチャードは、最初わりと自分勝手で傲慢な王であることを強調していたかも。決して善王には見えなくて、だから王位を追われることにあまり同情を覚えない。でも、しだいに彼の弱さ、無知ゆえの過ちが見えてくると、彼の転落が痛ましくなってきます。なぜなら(解説にもあったけど)、若くして正統的に戴冠した彼は、王権は神に与えられた神聖なものであり、それゆえ絶対的な力を持っていて、神が自分を守ってくれると信じてる😔 だから王でなくなる自分を客観視できず、王位を失うことは自己を失うことと同じななんだな。それって暗闇の中に放り投げられたと同じことで、廃位させられ牢獄でその恐怖に怯えるリチャードは哀れ😰 何者でもなくなったあとの独白は胸に突き刺さり、あのずっしりしたサイモンの身体がしぼんでいくように見えました😿
今回おもしろかったのは、簒奪者ボリングブルックが全くそれらしくない造形だったこと。最初からおどおど、そわそわしていて、この人、王になって大丈夫かと思わせる。貴族たちが手袋を投げ合って血統を挑むところは子供の喧嘩みたいで馬鹿馬鹿しいんだけど、彼はその収拾をつけられずにうろたえるだけだし😣 ヨーク公夫妻の駆け込み訴えも茶番劇風で笑えるけど、彼はうんざりして頭を抱えてしまう😫 明らかに王の器でないボリングブルック。彼は、リチャードが差し出す王冠にたじろぎ、それから逃げるようなそぶりも見せるし、本当は王にはなりたくないんですね。でもその彼が最後に笑うんですよね。あの笑みはどう解釈すればいいのか🤔
上演前の解説で「見事なスラップスティックコメディー……」みたいなことを言っていました。特に強烈だったのは、バケツに入った血や土や水が役者にぶちまけられ、役者の身体だけでなく壁や床まで血だらけ泥だらけのなかで芝居が続けられること。私はこういう、舞台上で役者が泥や血糊や食べ汚しなどにまみれドロドログチャグチャになって演技するというのが、生理的に苦手なのです😖 この演出家は以前にも「真夏の夜の夢」でマッドレスリングをやったそうで、そういうのが好みなのね〜……😑