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白山信仰の謎②〜「殺牛祭祀」を行う白頭山(韓国での呼称は太白山)の濊族〜

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前田速夫によると、白とシラに共通する語幹SIRがユーラシア大陸のほぼ全域で、原白山信仰とも言うべきシラヤマ信仰が、我が国にもたらされたについては、大陸と列島とを結ぶ朝鮮半島の果たした役割が大切で、白山信仰の様々な謎を解くもっとも重要な鍵の一つは古代朝鮮が握っているという。



【江陵端午祭り】

韓国の3大名節のひとつで、ユネスコ世界無形文化遺産に指定されているほど歴史も古く韓国最大の祭りといわれる。

「端」は物のはし、つまり「始り」という意味で、元々「端午」は月の始めのの日のこと。
朝鮮半島の太白山脈の東に位置する江陵の町とその周辺地域で行われます。これは、山の神と男女の守護神をシャーマニズム的祭礼によって讃える、大関嶺のお祭り。





【秦氏に関係?蔚珍(うるじん)郡の波旦(ぱだん)】

秦氏の秦は新羅の古い波旦県から来ているのではないか?との説がある。(偶然にも秦氏と繋がったのですが)

▶1988年4月「殺牛祭祀」をした事を刻んだ新羅の古碑が発見された(534)
▶慶尚麗北道でも新羅碑(503)が発見された。


李成市によると、石碑には、命令と制裁だけでなく、殺午の儀礼や誓盟といった固有の習俗が、そこには介在している。

殺牛の儀礼や誓盟も天を媒介とする呪術的な行為である事は明らかであるとのべて、それを要請したのは、予これた共同体の秩序を回復するためだったと指摘していた。

「殺午祭祀」の両碑が発見された場所は、ともに古代高句麗の政治圏、文化圏に属し500年前後にようやく新羅の政治影響圏に入った境界領域で、まさにそこは穢族(わいぞく)の南端の居住地であり穢族の活動が活発に展開された地域でもあった。穢族高句麗と新羅の領域にまたがるこの地域に活動していたからこそ、両碑に記された「殺午祭祀」の祭祀がこのような境界領域で挙行されたのではあるまいか。と述べている





【濊族(わいぞく)】

紀元前二世紀位以来、約千年にわたって朝鮮半島の咸鏡道から江原道の沿岸地帯や中国の松花江流域に実在した事が確認されるツングース系の部族。

彼らが天空信仰を有し、「殺午祭祀」を行っていた。

よく並び称されるのは濊族は漁撈民で、貊族は牧畜民で神社の狛犬の狛はこれにゆらいする。最近では同じ部族とみる説が有力であるらしい。





【濊族(わいぞく)の天空信仰】

濊族の習俗では、山や川を尊重していて、山や川には特別な個所があり、みだりに立ち入ることができない。

麻布を織り、桑を植えて蚕を飼い、真綿をつくっている。

星宿の動きを占いさとり、あらかじめその年が豊作であるか凶作であるかを判断する。

常に10月を節として天を祭り、昼も夜も飲食し歌舞する。これを名付けて舞天といっている。また、虎をまつり虎を神として崇めている。

この祭天の儀礼は夫余 や高句麗や弁辰(後の加羅、新羅)、韓(後の百済)に伝えられ、朝鮮半島ではあまねく浸透した。





【濊族(わいぞく)の南下】

穢族は自らは国家をつくらず、夫余 や高句麗や三韓、靺鞨や渤海に支配吸収されてしまったため、その実体は不明な点が多い。

しかし、居住区からして白頭山や太白山を聖なる山と仰いでいたのに相違なく前田速夫は、中国や朝鮮の白山部の住人がこの部族であったと述べている。

東国輿地勝覧三陟都護府編 祠廟條 太白山祠欄には、端午祭が行われる江陵町が、かつては濊族の一大拠点だった事を合わせて考えると、中国白山部から江陵を経て、朝鮮半島を南岸を南下した濊族とともに、白山(ペクサン)信仰=原シラヤマ信仰も南下し、倭と接する事となったと推測している。

この秦氏と関係がある地で濊族の血が秦氏に混入したとすれば前田速夫自身説得力が増すと記されてある。





【白山信仰と白頭山(韓国での呼称は太白山)】

「白山信仰を白頭山(韓国での呼称は太白山)と並べて論じたのは、NHK特集デレクターであった水谷慶一。

白山は、たんに「色が白い山」ではなく、「日の光に照り輝く山」であろう。その聖なる太陽信仰の美御山を日夜、仰ぎ見た白山部に住む一族が、遥か日本海を東に渡ったとき、水平線の彼方に最初に見つけたのが、我が国加賀の白山ではなかったか。


☞「白山部」に住む一族とは
白頭山の中国側、旧満州の「白山部」に住む靺鞨(まつかつ)の一族をさす。

彼らは高句麗族と同じくモンゴロイドの血を混じった穢族の貊系のツングース族であり、7世紀末に唐によって高句麗が滅亡した後は全ツングース族を糾合して渤海国を建国した。

渤海の建国者の大 祚栄(だい そえい)は白山部出身で、728年から811年にかけて幾度も使節を日本に寄越している。

彼らは、航海に長じた民族であった。
金浩天によると渤海と日本の国有関係においては、727年から929年まで継承され、渤海からの遣日本使は34回、日本からの遣渤海使は13回、そのかずは、日本と唐との派遣使節とは比べ物にならない。また、唐文化の日本への伝播も渤海からの使節が大きな役割を果たしていた事は、それほど知られてはいない。
太陽信仰 「日出る国」をもとめて渡来してきたのか?

白頭山=太白山の信仰は、おそらく彼ら「白山部」の中でうまれ、日本海を渡って運ばれたものと想像される。

太白山は「巫俗の聖地」ともいわれる。すでに2千年以上の歴史を持ち、古来より祭祀を執り行ってきた天祭壇には、常に巫堂(ムダン)やパクス(=男性ムダン)など巫俗信者が訪れ、祈りを捧げている。





【白山 白峰は「牛首」の名だった】

白峰となる前は「牛首」であった。
旧名の生々しさを嫌って白峰としたのは、明治になってからだという。

牛首地名は「殺午祭祀」がこの地で行われていたことの名残からではないかと前田速夫は思量している。

「殺午祭祀」を主宰した村々の祝部(はふりべ)祝でその仕事をするのは聖職者だった。ところが仏教の禁肉食思想や血穢思想が浸透すると、彼らは被差別者と見なされるようになる。こうした事情は、韓国でも殺午を執行したのは、白丁 広大 揚水尺と呼ばれた被差別者たちだった。





【殺牛祭祀】

門田誠一によると
殺牛祭祀に関するもっとも遡る記述としては、『日本書紀』に皇極天皇元年(六四二)七月戊寅条に次のような内容がある。すなわち、

日照りが続いたので雨乞いのため、村々の祝部の教えにしたがって、牛馬を殺して諸社の神を祀りあるいは、しばしば市を移したり、河伯(河の神)に祈ったりしたがまったく効果がなかったと群臣が語り合ったのに対し、蘇我大臣蝦夷は、諸寺で大乗経典を転読悔過し、雨を祈ろうと提案した、という記事である。

下って延暦一〇年(七九一)九月十六日には伊勢・尾張・近江・紀伊と並んで若狭・越前に対し、百姓が牛を殺して漢神を祀ることが禁止された。

「殺牛用祭漢神事」という太政官符がみられ、これに違反した場合は故殺馬牛罪という罪科に問。

また、延暦二〇年(八〇一)四月八日には越前一国に対して、牛を屠って神を祀ることを禁止している。

牛を殺す祭儀は元来、中国古代において行われたことは広く知られている。中国古代の礼制では祭祀の際には牛を屠ることが、最上の行為であった。

日本古代の殺牛祭祀については、『日本霊異記』の殺牛記事に関して「斑牛」の記述がみえ、これを飼育していた人物が渡来系であることから、中国古代に発する殺牛祭祀の直接の系譜を引くのではなく、斑牛を殺して天に誓う新羅の祭儀の要素の一部を受け継ぎながらも、牛の肉を溝口に置いて蝗の害を防ぐこと祈雨のために牛馬を殺して諸社の神を祀ることに示されるように在来の信仰習俗として取り込まれたと考えた。


前田速夫が言うように、天空信仰の濊族、または濊族の影響を受けた人たちが秦氏と一緒に日本に渡来し、神社のもとのような天空信仰も渡来してきたなら、白山のみならず日本各地で牛を殺す祭儀「殺牛祭祀」も行われその名残が「牛」の文字に刻まれているのなら、私が「牛」にこだわった答えがみつかったとも言えるだろう。





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