笠井氏の追悼記事は、経済各紙が取り上げている。

代表的なものについて、散逸する前にスクラップしてみることにした。



孫氏の挑戦支えた「捕手」――故笠井氏、ネット通信に道筋(サーチライト)
2013/10/30 日経産業新聞 3ページ より

 

香川大学解体新書-笠井氏
ソフトバンク本社で


ソフトバンク取締役だった笠井和彦氏が21日に亡くなった。富士銀行副頭取から転じた安田信託銀行会長を退く際、外資系金融大手の大半から誘われたが「ネット革命という理想に挑戦する心意気に共感した」。学生時代から愛読する宮沢賢治の理想郷に思いを重ね、20歳も年下の孫正義社長の三顧の礼に応えて後見役を務めた。


 「孫さんの投資にノーというのが私の仕事だよ」。苦笑いしながら漏らしたことがある。孫社長の理想に共鳴したものの「結果を出さないと社会から評価されない」として業績を重視。孫―北尾吉孝氏(現SBIホールディングス社長)時代の投資拡大路線に決別し、ネットと通信に投資先を絞り込んだ。
 結果重視は銀行時代に育まれた。香川大出身で東大など学閥に無縁の笠井氏は為替ディーラーとして頭角を現し、シカゴ、ニューヨーク支店長を歴任。利上げの噂の中で金利は上がらないと看破して国債を大量購入して莫大な利益を計上。一時は富士銀の収益の大半を稼ぎ出し、誰もが読みを聞きたがる「市場のプロ」として名をはせた。


 2000年にソフトバンク入り。最初の仕事は買収直後のあおぞら銀行。「金融から足を洗いたかったのに」と愚痴をこぼしながら整理を進めて03年に売却。フジテレビ・ライブドア騒動の際も、フジ株取得を誘う声に笠井氏は断固反対。ソフトバンクのネット通信会社路線を守った。
 金融機関との関係も重視した。北尾時代はメーンバンクを作らずにコンペで案件ごとに金融機関を決める方式。しかし、笠井氏はみずほフィナンシャルグループを中心とした間接金融に転換。財務状況を開示して信用を得た。
 その金融機関との良好な関係をベースに「錬金術師」ともいわれる手腕を見せた。パラソル部隊が0円でモデムを配ったヤフーBB事業では回線料金を証券化して資金調達。ボーダフォン日本法人買収でも通話料金を証券化し、当時で過去最大の1兆7500億円の買収を実現した。
 米スプリント・ネクステルの買収でも、米政府の認可などが出る前の昨年秋に買収資金の為替を予約。周囲が不安視する中、「絶対に円安が進む」と断言して買収資金を3000億円も節約。伝説のディーラーの最後の勝負となった。


 無類の野球好き。学生時代の定位置はキャッチャーだった。ホークスが大勝すると、取材の際も口が軽くなった。王貞治氏とは「ともに現役を続けよう」と励まし合う仲。親会社からの資金援助に依存する経営体質を改革して、地元企業と共存で収益を稼ぐ球団経営のモデルを築いた。
 エースの孫社長が投げ込む剛速球や鋭いフォークを受け止め、未知数だった投資会社から通信・ネット世界大手に育てた。「笠井氏がいなければ今のソフトバンクはない」(金融機関幹部)。どんな球でも受け止めたキャッチャーを失った孫社長はあしたからどうボールを投げるのだろうか。
(多部田俊輔)



笠井和彦さんを悼む ゲームセットはあまりに突然に  

:日本経済新聞 電子版2013.10.24より


勝負師であり詩人
笠井さんとの付き合いは長い。富士銀行(現みずほ銀行)の部長時代から二十数年になる。気さくな方だった。若い勉強不足の記者にも、いつもにこやかに対応してくれた。富士銀行の証券部門、国際部門の若手行員は、ほぼ例外なく、笠井さんを慕っていたと思う。

為替や債券の売買で勝ち続けた勝負師の顔を持つ半面、「本当は詩人になりたかったんだ」と聞いた時、なぜか妙に納得したのを覚えている。普段のたたずまいに、どこか余裕や余韻を感じさせる人だった。
詩との出合いは故郷、香川県木田郡三谷村(現高松市)の小学校時代だという。香川大学時代、経済学部の文芸部が発行する同人誌「印象」や、地元の著名詩人、十国修さんの主宰する詩集「詩研究」に作品を発表した。笠井さんの詩が全国同人誌コンテストで優秀賞に選ばれたり、日本の詩人100人に選定されたこともあった。富士銀行に入ってから「俺はいつか詩人として身を立てる。銀行員は世を忍ぶ仮の姿だ」と周囲にうそぶいていたのも、まんざらではなかったのだろう。入行2年目に創立80周年行事として、行内で小説や詩を公募した際も1位となり、賞金5000円をもらった。「今の感覚で50万円くらいかなあ。大阪の堂島支店の同期3人で連日、十三のホルモン焼き屋に繰り出し、大騒ぎしたよ」と振り返る。
そんな牧歌的な支店勤務に転機がきたのは入行5年目の1月。東京の外国資金課への転勤辞令だった。「もうびっくりだった。大阪より東へろくに行ったこともないのに、外国資金って何だよ、という感じ」。戸惑いの中で始まった外国為替との付き合いだったが、ここでの10年間が、笠井さんのその後の人生を切り開く。

96年債券相場で大勝
為替ディーリングで頭角を現し、ニューヨーク支店長など経て、1990年に常務、91年に専務、92年に副頭取と出世の階段を駆け上がる。為替、債券などマーケット全般を統括するようになった笠井さんが、ディーラーとして真価を発揮したのが96年の債券相場だ。
当時、市場に日銀が利上げをするという噂が流れ、新聞も「日銀、利上げへ」と報じ始めた。笠井さんは担当者を呼んだ。「そんなに資金需要は強いのか」「そうでもありません」「ではなんで利上げなんだ」「よくわかりません」。利上げはないと読んだ笠井さんは、売り一色の債券相場で果敢に買い向かった。じりじり下がる相場、部下は「大丈夫ですか」と心配顔だったが、「マーケットでは当たり前のことしか起きない」と動じなかった。

そのころ、日本経済新聞の担当記者が笠井さんを訪ねてきた。「他紙は日銀利上げへと書いたのですが、うちは見送りました。大丈夫でしょうか」。笠井さんが「僕は利上げはないと思うよ」と答えると、記者は安心して帰っていった。はたして利上げはなく、債券相場は一転、急騰し、富士銀行はこの期、莫大な債券売買益をあげた。ライバル行からは「9回裏逆転満塁ホームラン」とやっかみの声が出たが、「もし利上げがあったら大損だったから内心ハラハラしたが、なるようになると腹をくくっていた」
副頭取時代は国際部門も担当した。海外出張も増えたが、フィリピンで一度、大失敗をした。マニラ支店の開設準備で出張した際、ラモス大統領とゴルフをすることになった。笠井さんは現地の超名門コースであるマニラカントリークラブで待っていたのだが、大統領一行は来ない。おかしいと思って問い合わせると、マラカニアン宮殿で待っているという。なんと宮殿の中にゴルフ場があり、そこでプレーするという。
ゴルフの後に支店開設の認可に関する会議が予定されていた。大統領の怒りを買って、認可が下りないとどうしようと、ずいぶんあせったが、1時間遅刻した笠井さんを、大統領は「ノープロブレム」とにこやかに迎えてくれた。

安田信託の再建に奔走
1990年代後半は日本の金融にとって、試練の時代だった。その象徴的な事例が、97年の山一証券の経営破綻だ。含み損を抱えた有価証券を転売する「飛ばし」と呼ばれる取引で、山一は巨額の損失を抱えていた。飛ばしの噂は以前からくすぶっており、笠井さんも何度か山一の担当役員に聞いていたが、そのたびに山一側は「大丈夫です。そんな巨額の損失はありません」。
「実は……」と笠井さんのもとに相談に訪れた時は、もうすでに遅かった。山一の決済に不足する資金は当初、1000億円程度だったが、どこの銀行も資金を出さないので、事態は加速度的に悪化、最後は4000億円もの資金不足になったという。
山一が倒れた翌年、安田信託銀行(現みずほ信託銀行)の経営が悪化する。富士銀行の山本恵朗頭取から「行ってくれるか」と請われ、笠井さんは会長として安田信託に単身、乗り込み、再建に着手する。年金部門、証券代行部門の売却や増資で得た資金で不良債権を償却し、なんとか経営を立て直した。

香川大卒という笠井さんの学歴は、東大卒の多い富士銀行では異色だった。学歴がハンディにならなかったか、よく聞かれたというが、本人は「まったく感じなかったなあ」と笑う。笠井さんは勉強家で経済原論、経済政策は学者並みの知識があり、ケインズにも精通していた。「勉強量や知識では東大卒に負けないと自負していた」(笠井さん)自信が、支えになっていたのかもしれない。

安田信託の再建にメドがつき、相談役に退くことが決まった2000年4月、ソフトバンクの孫正義社長から突然、電話が入った。「今、近くにいます。お会いできませんか」
当時、笠井さんは外資系金融機関に移る話が進んでおり、条件交渉は最終局面だった。孫社長は笠井さんを熱心に誘った。話を聞くうち、「孫さんのビジネスの話は、普通の感覚よりゼロが2けた多い。21歳年下の異能の経営者と一緒に働くのも、おもしろいかも」と、銀行界からIT業界へ、異例の転身を決めた。
笠井さんの転身は、ちょっとした騒ぎになった。当時のソフトバンクは今ほど知名度もなく、何を目指しているのか、わかりにくい会社だった。周囲は「何を考えているんだ」「富士銀行の副頭取までやった人間が行く会社じゃない」「考え直せ」と懐疑的な声ばかり。「おもしろそうだな」と言ってくれたのは、同期の友人、ただ1人だった。

スプリント買収で3000億円の為替差益
ソフトバンクでは財務と経営補佐を担当した。アリババという会社を「7人の盗賊じゃあるまいし、なんですかこの会社は?」と孫社長に尋ねるくらい、ITには疎かったが、相次ぐソフトバンクの大型買収を仕切ったのは笠井さんだった。
今年7月の米大手携帯会社スプリント・ネクステルの買収でも、ディーラーとしての相場観がさえた。アベノミクスが始まる前の昨年秋、貿易収支の赤字額などからみて円高局面は終わりと判断し、早めのドル調達に動いた。1ドル=82円20銭で買収資金を集め、その後の円安で3000億円の為替差益を得た。

ソフトバンクホークスの球団社長になってからは、「あれほど反対していた友人たちが、今はうらやましがっているよ」と笑っていた。「ソフトバンクという会社は面白いよ。20代に戻って、もう一度この会社でやり直したいくらいだ」と、毎日をいきいき楽しんでいた。厳しい局面でも「野球も人生も9回2アウトからだよ」と、決して音を上げなかった笠井さん。ゲームセットはあまりに突然だった。

(編集委員 鈴木亮)