私はこれがやりたい!と言うと、やって喜ぶのは私。だから無償か謝礼を払う。これは遊び。あなたにこれをやって欲しい!と依頼がくると、やって喜ぶのは依頼相手。だから謝礼をもらう。これは生業。

だから来た球を打っていればお金は入ってくるし、その入ってきたお金でやりたい事がやれる。やりたい事をやると、他人の反応が返ってくる。すると、あなたにこれをやって欲しい!に変わる事も出てくる。すると、遊びが生業に変わる。

遊びが人様への奉仕の場合、これは菩薩行となる。菩薩行の場合も喜ぶ相手が出てくるが、その相手は謝礼を(相場に見合った)お金や物で示せない。それでもやる。

もっとも面白いところは、仏教などの修行僧は、人から施しをもらう点だ。これは菩薩行を人から施される側にまわるという事を意味する。僧が菩薩行を行なうのでは無く、人々が僧に菩薩行を行なうのだ。

そうすると、仏の道に生きるという事は、自らが菩薩となって人を救う(人に何かを与える)のでは無く、菩薩心を起こすのは他者であり、自分は救われる(人に何かを与えられる)側だという事を意味する。

例えば本来の巡礼者は、金銭を持たない。金銭を持たずに旅なんて出来るか?と思われるかもしれないが、人様から施しをもらって旅を続けるのが本来の巡礼の旅である。そうすると、もし人から何かを与えられた場合、人に感謝する気持ちが心から喚起されて、愛(心で受け取る気持ち)が芽生えるというシステムなのだ。