【質問】『「我々韓国人は高句麗人(フヨ族)の子孫だ。高句麗は韓国人が建国した国だ」と主張していますが、 これは事実でしょうか?』

【回答】 完全なウソです。韓国人の作り話です。韓国人と高句麗人はまったく別種の民族です

高句麗人は古代の満州地方に住んでいた 遊牧民族=フヨ族の一派ですが、韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方(日本海沿岸地方)に 住んでいたユウロウ族です。狩猟民族=ユウロウ族の子孫が現在の韓国人です。このユウロウ族はシベリア奥地の山岳部から半島東北部に移住してきた民族です。

満州地方に住んでいた遊牧民である高句麗人(フヨ族)とは何の関係もありません
強いて関連付けるならば、一時期、フヨ族がワイ族を支配化に置いていたこと、くらいです。

では、高句麗人の子孫にあたる民族とはどのような民族なのか。それは女真族(満州族)です。高句麗が唐によって滅ぼされた後、高句麗人(フヨ族)は彼らの故郷である『満州』に逃げました。高句麗人はこの地において契丹族や鮮卑族、モンゴル族と混血しました。それによって誕生したのが女真族(満州族なのです。 
この女真族が、1115年に満州地方から中国北部にまで版図を有する『金国』を建国しました。金国が滅びた後、1616年に、 同じく女真族の国である第2次金国=後金国が建てられ、この『後金国』が清国へと発展していきます。


高句麗人(フヨ族)の歴史を図にすると、下記のような流れになります。

フヨ国→ 高句麗→ 金国→ 後金国=清国 (高句麗滅亡後に建国された渤海国も『高句麗人の国』という説がある) 〕

見ての通り高句麗と韓国人は何の関係もありません。高句麗人の末裔と呼ぶべき民族は満州族であり、韓国人=朝鮮人ではないのです。 

韓国人は高句麗人の子孫ではないだけでなく、高句麗人の歴史を受け継ぐ満州族(女真族)のことを『オランケ』と呼び、蔑んでいました。 オランケとは韓国語で「野蛮人」の意味です。
韓国人は、
「我々は高句麗人の子孫だ」と自称する一方で、
本物の『高句麗人の子孫』である満州族のことを、野蛮人呼ばわりして 見下しているのです。

 ところが実際、朝鮮人は常に満洲人の格下として従僕し、かの有名な「朝鮮」の称号を満洲人により頂いたのでした

ところが最近の韓国人は、時と場所によって「満州族と韓国人は兄弟民族だ」と言ったり、「満州族はオランケであり、韓国人と違う民族だ」と、 言ったりしています。
まさに『ご都合主義』です。
自分たちの都合により、歴史を捏造し歪曲しているのです。 
事大主義・ご都合主義のナレハテです。 

自分たちの都合の言いように歴史を捏造し、歪曲し、
 日本人は朝鮮人の子孫で朝鮮が文明を伝えたと誇示し、日本の古墳を隠蔽する 

そうした朝鮮人こそ、新しい時代に半島に入植してきたユウロウ族や越人(長江渡来人)・旧漢人(黄河系)・ワイ人の子孫である。

一方、日本人は倭人と縄文人の子孫である。

この2つの民族は最初から別種なのだ。



高句麗=扶余系=満州系なんだわな。

高句麗の発祥地は中国の東北地方で、
高句麗の数百年の歴史のうちの最初からの半分以上が中国東北地方にしか版図がなく、朝鮮半島には存在はしてなかった
そして、彼らが滅亡した後は、ほとんど満州の部族に移行している。
つまり、どう考えても、高句麗は中国東北系の国なんだわな。



※wiki より
高句麗は、夫餘から出た別種である。
(『旧唐書』高麗伝 :「高麗者、出自扶餘之別種也。」)
高句麗は本来夫餘の別種である。(『新唐書』高麗伝 :「高麗、本夫餘別種也。」)という記述にもあるように、高句麗族はその起源伝説の類似点から、ツングース系と考えられる扶余と同じ民族と見られることが多い。
史上でも扶余の流民を受け容れていることが記されているが、民族を同一とするにたる明証はなく、墓制の違いを見る限りは扶余と高句麗との差は歴然としている。

但し、『魏書』百済伝の百済王蓋鹵王の上表文には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」(臣與高句麗源出夫餘)とあり、当時の百済人は高句麗人を同種の夫余とみていたことになる。
なお、扶余族は他に、沃沮(東沃沮・北沃沮)・?・百済(王族)など朝鮮半島に広く分布していた。


上記からも、高句麗はツングース系と確定している。
当然、朝鮮民族ではない。

百済→王族は扶余族、倭人と混血 、
民衆は長江文明の遺臣の弥生人(百越人ともいう) 

新羅→王族は扶余族、三王家のふたつに倭人出自説あり、民衆は弥生人と、始皇帝から逃げてきた秦人(漢族)

高句麗→ツングース系女真人 
高麗→ツングース系女真人 
渤海→ツングース系女真人

渤海と高句麗の民族的人種的なつながりは
はっきりとはわからないが、 
新羅に滅ぼされた高句麗の遺民が建国した国ではないか、
とは言われている。 
何度も日本に朝貢している。
 
渤海が滅んだのち、
今度はその遺民が高麗を建国した、
というのがだいたいの流れ。 

中国東北部にいた人々が
一時期朝鮮半島に国を作ったとも言えるし、
それが朝鮮人であるとも言える。

朝鮮半島は漢族、倭人、中国東北部族、
モンゴル人等々、種々雑多な人種が入り乱れている。 
日本と違って、半島というのはどこでもそういうもの。
いわば人種民族の通り道的な存在




 挹 婁(ゆうろう)

『三国志魏書』挹婁伝
 挹婁は扶余の東北千余里に在り、大海に沿い、南は北沃沮と接し、未だその北の極まる所を知らない。土地には多くの険山がある。姿形は扶余に似ているが、言葉は扶余や高句麗と同じではない
(中略)
 そこの人々は不潔で、中央に便所を作り、人々がそれを囲んで住んでいる。
(中略)
その国は船で略奪をするので、隣国はこれを患いとしている東夷は飲食のときに俎豆(そうず=お膳)を使うが、ただ挹婁だけは用いない法俗は最も綱紀が無い (最悪の無法者)なり


4世紀頃の東夷諸国と挹婁の位置。


※ Wikipediaより

◆挹婁の衣食住と人尿洗顔

挹婁の生活スタイルは、その東夷諸国のなかでは極めて特異である。

まず、挹婁人は地上に家を建てず、地下に縦穴(竪穴)を掘り生活する。竪穴は深く(梯子の段数が多く)かつ大きいほど尊ばれたという。住居を地中に構えたのは、防寒の為と考えられている。
さらに、部屋の中央に置いた尿を溜めた容器を囲んで暮らし、その人尿で手や顔を洗ったという。これについて『三国志』や『後漢書』では「その人々不潔」、「その人々臭穢不潔」とあらわしている
また、挹婁人は養豚が盛んで、豚を主食とし、豚の皮を着物にした。夏にはほぼ全裸でわずかな布だけで前後を隠したが、冬には豚の膏(あぶら)を身体に数センチもの厚さに塗って風や寒さを防いだという。

食事をするときに、他の東夷諸国では爼豆と呼ばれる食器(高杯形土器)を常用していたのに対し、挹婁人は爼豆を使う習慣が無く、鼎や瓶や平皿を用いて炊事や食事をし『後漢書』『三国志』では「東夷のなかで習俗が最も無規律な者たち」と記している。

人が少なく、険しい山に住み、衆は規律に服さず、船が巧みでしばしば近隣諸国を寇掠したとも記されている。

また、邑落の大人を一つの血族が継承する習俗は、近隣の扶余や沃沮が合議による選挙で大人を選んだのとは対照的である。