そのとき何が起こったか?~墜落事故30年目の真実~ | 団塊Jrのプロレスファン列伝

そのとき何が起こったか?~墜落事故30年目の真実~

どうも!!流星仮面二世です!!

さて、日本や世界を駆け巡るプロレスラーにとって"移動"は切っても切れないものですね。

1年のうちのほとんどが、この移動に費やされてしまうほどなのでレスラーにとっては大変なことですが、しかしおかげでボクらは外国人レスラーを日本で見れたり、ビッグマッチでなくても地方でレスラーを見たりすることができるわけですね。

そんな移動手段の中でも、飛行機は大変に大きな存在です。短時間で長距離を移動できるという点で、これほど人類に影響を与えたものはないと思います。飛行文明における飛行機の中でも旅客機の登場は、それまでの"移動"という時間リスクを低減し、まさに革命をもたらせました。

そんな旅客機が本格的に世に出てきたのは1919年になります。第一次世界対戦が終わり軍備が縮小されたヨーロッパでは、それまで使用されていた初期の軍用機が民間に売りに出され、旅客や輸送の手段として活躍し出しました。その後、機体を専門に作る製造メーカーが登場し、航空会社も充実性を見せるようになり現在の形のようになっていくことになります。

しかし、便利になっていく歴史の中で悲劇の歴史があったのも忘れてはなりません。そう、旅客機の事故です。

現在、旅客機は世界で最も安全な乗り物と言われています。人が旅客機で事故に遭い死亡する確率は0.0009パーセントという数値だそうです。見ての通り、かなり低い数値ですが自動車事故で死亡する確率が0.03パーセントと言えば、さらに旅客機の安生性の高さが確認できると思います。

しかし、空を飛ぶという性質上、一旦事故が起きれば大惨事は免れません。また、めったに事故が起きないという点で、起きたときのインパクトは大きく報道も大々的に取り上げるので、どうしても印象が残ってしまうものです。

そんな旅客機での事故で、ボクには忘れられないものがありました。それはボクが中学3年の冬・・・1987年11月28日に起きた、ある旅客機の事故でした。

その事故は、南アフリカのヨハネスブルグに向かっていた南アフリカ航空機がアフリカ大陸の東にあるモーリシャス島の沖合いに墜落するという事故で、乗員、乗客を合わせて159名、全員が亡くなるという衝撃的なものでした。

この旅客機には、アフリカで行われていた遠洋漁業に従事ていた日本人の関係者や交代乗組員が搭乗していたため、47名もの日本人が搭乗していました。そのため海外での旅客機の事故としては、これまでになかった人数の日本人が犠牲者となってしまったのです。

そしてその日本人の中には・・・プロレスラーのハル薗田夫婦も含まれていました。

ハル薗田は1975年1月に全日本プロレスでデビュー。79年9月より海外修行に出、アメリカでマスクマンのマジック・ドラゴンに変身。あのフリッツ・フォン・エリックが目に掛け、テキサス州ダラスではザ・グレート・カブキと組んでオリエンタルな魅力を振りまき人気となりました。

 
マジック・ドラゴン

84年1月2日、後楽園ホールに4年4ヵ月ぶりに凱旋。トリッキーで切れのある遠征時代のスタイルそのままのマジック・ドラゴンとして帰国第一戦を越中詩郎と戦い、勝利します。

 
オリエンタル殺法でおよそ10分ほどで越中を料理した

同年3月24日には蔵前国技館でマイティ井上が持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級のベルトへ挑戦。善戦を見せますが最後はオースイ・スープレックスで井上に丸め込まれ王座奪取なりませんでした。

スキを突かれての敗北だけに悔しい一戦となった

その後もマスクマンとして全日本でファイトしていましたが85年6月5日、おそらく日本では初となるマスカラ・コントラ・カベジュラ戦を小林邦昭と行ない、敗れてマスクを脱ぎ園田一治の素顔をさらすことになります。

 
敗れたのち自らマスクを取った

馬場さんからの信用はもちろん、面倒見がよく人柄もよかった薗田は、その後はマスクマンとなることはなく、若手のコーチをしながらのレスラー生活を送ります。

そして87年9月に結婚しますが・・・2ヵ月後の11月28日に新婚旅行を兼ねた南アフリカ遠征に出発し、そこで・・・事故に遭ってしまったのです。

ラストマッチとなったのは87世界最強タッグリーグ戦の最中の11月23日、茨城県水戸市民体育館で行われた渕と組んでの冬木、川田組とのタッグマッチだった。結果は20分時間切れ引き分けだった

夫婦生活わずか2ヶ月。薗田31歳、奥さんの真弓さん30歳という、それはあまりに早く、あまりに悲劇な出来事でした。

ハル薗田の未来を一瞬にして奪ってしまったその事故は、なぜ起こってしまったのでしょうか・・・

あの日、薗田が搭乗した飛行機は南アフリカ航空が運航する295便でした。

この飛行機は台湾にあった中正国際空港(当時)を出発。アフリカ大陸の東に位置するモーリシャス島の空港で給油をし、南アフリカのヨハネスブルグに向かう途中でした。

飛行機は順調なフライトでヨハネスブルグに向かっていましたが、台北を出発して9時間30分以上が経過した頃・・・そのとき機内に突如異変が起き始めました。


ボイスレコーダーより

プルルルル(警告音)

ポーン(インターホン音)

航空機関士「何が起こってるんだ?」

発言者不明「え?」

航空機関士「貨物室か?」

航空機関士「あとで行く」

発言者不明「どこですか?」

航空機関士?「ちょうど右だ」

発言者不明?「何ですって?」

航空機関士「メインデッキの貨物室だ」

航空機関士「それから、もうひとつも来るだろう。私はふたつ持っている(何の話だろうか?)」

航空機関士「あそこのボタンを押さないと」

発言者不明「はい」

機長「私達にチェックリストを読んでくれ」

発言者不明「ブレーカーも落ちた」

発言者不明「はい」

発言者不明「ブレーカーパネルも確かめよう」

機長「ああ」

※カツ、カツ、という音が聞こえる。これはなんらかのスイッチを入れているときの音?だろうか?

機長「くそっ、どっちも来たのは本当か」

ポーン(インターホン音)

発言者不明「ああ、くそっ」

ポーン(インターホン音)

機長「一体、何が起こってるんだ」

ポーォーンという長い警告音

ボイスレコーダーでの会話を見てみると、この時点でのコックピットは貨物室で異常が発生していたことこそわかれど、何の異常が起きているのかまではまだ把握しきれていない様子です。

しかし、このとき貨物室ではすでに火災が発生しており、機内には煙が充満しはじめていました。事態を理解した295便は直ちにモーリシャスの航空管制官に無線を入れます。


これより295便と管制との交信記録

295便「あーモーリシャス、モーリシャス、こちらスプリングボック295」

※スプリングボックはアフリカに生息する動物の名だが、正式な記録にはこの呼び名は見当たらない。おそらくこの295便の飛行機の当地での呼び名だったのではないだろうか?

管制「スプリングボック295、えーこちらモーリシャス。えーおはようございます。えー、どうぞ」

295便「あー、おはよう。あー、機内で煙が発生。現在レベル15・・・あー、140まで急降下中」

管制「フライトレベル140まで降下したいんですね?」

※フライトレベルは飛行機が巡航速度で飛ぶ高さを示したもので、気圧高度計に国際基準の大気圧を使用し、高度計規正値でセッティングし得られるという。知識がない我々からすると、フィートからゼロをふたつ取った数字と見るとわかりやすいようだ。なのでこのときのフライトレベル140は14000フィート(4267.2メートル)だと見ると考えやすい。

機が元々何フィートを飛行していたかは不明なのでどれくらいの降下をしていたかはわからない。飛行高度は世界共通ではなく国などでそれぞれ決められている。国際線では高度30000~46000フィート、平均すると33000フィート(およそ10000メートル)になる。ここから推測するに295便は、国際線平均からすると14000フィート(4267.2メートル)は半分になるので、かなり急な降下があったように予想される。

295便「ああ、機内に、あー、煙が充満している」

管制「あー了解。フライトレベル140への急降下を許可します」

295便「了解。火災への警戒を感謝する。えー・・・えー・・・」

管制「あー、緊急事態を宣言しますか?」

295便「大丈夫、ジョー(誰かの名前?)キミは我々のためにできることがある(詳細不明)」

※機長、副操縦士、機関士の名前が不明のため誰なのかはわからないが、コックピットに"ジョー"なる人物がいたようで、その後も何度か機長から名を呼ばれる形で通話の節々に突然に出てくる。

管制「スプリングボック295、こちらプレザンス(プレザンスは空港名のようだ。ここから管制は空港の名で応答する)」

295便「すいません、もう一度」

管制「えー、緊急事態を宣言しますか?」

295便「そうです、緊急事態宣言です」

管制「了解、緊急事態宣言を確認」

飛行機「サンキュー」

長い間

管制「スプリングボック295、こちらプレザンス」

295便「えー、もう一度」

管制「そちらの現在地とDMEの距離を教えていただけますか?

※DME(Distance Measuring Equipment)飛行機と、地上に設置されているDME局の距離を測る装置。

295便「えー、DMEが読み取れていません」

管制「えー、了解。では現在位置を教えていただけますか?」

295便「えー、もう一度」

管制「そちらの現在地です」

295便「現在、計器の多くが使用不能。機体の情報が手に入りません」

管制「えー、了解。直ちに緊急事態を宣言します」

295便「確認」

管制「了解」

長い間

管制「えースプリングボック295、プレザンスへの到着予定時刻は分かりますか?」

管制「スプリングボック295、こちらプレザンス」

295便「あ!?プレザンス!?」

管制「プレザンスへの到着予定時刻は分かりますか?」

295便「えー、あー、00、あー、あー30」

管制「了解、0030ですね」

295便「おいジョー!!残りの酸素を止めてくれ」

管制「すいません、もう一度お願いします」

長い間

無線のチューニング音のような音(長く鳴る)

長い間

295便「あープレザンス、こちらスプリングボック295。無事かどうか確認するためドアを開けた」

295便「ドアを閉めろ○○○!!(途切れ途切れなのでマルのところは聞き取れない。ブロディ?とも聞こえるが、誰かの名前だろうか・・・?)」

295便「ジョー、すぐにスイッチを切り替えて穴を塞ぐんだ!!」

295便「気圧12000」

295便「でなきゃ、この飛行は悲しいことになるぞ!!」

295便「キィィーン(という音声。無線のスイッチが一瞬入っただけか?)」

※無線のチューニング音のような音が聞こえてからここまで、誰が誰へ何を言っているのかがわからない。パニックになっている様子が伝わってくる。

295便「あープレザンス、こちらスプリングボック295、もう一度繰り返してくれ」

管制「あーすいません295、もう一度、もう一度お願いします」

295便「65マイル(約105キロメートル)の位置にいる」

管制「65マイル確認」

295便「あー了解。緊急事態を宣言」

管制「あー了解。スプリングボック295、えー、フライトレベル50を再承認します」

295便「了解、レベル50」

※フライトレベル50は5000フィート、約1.5キロメートルと、かなりの低空飛行になるが・・・

管制「それとスプリングボック295、プレザンスの現在の天候を伝えます。繰り返します。プレザンスの現在の天候を伝えます。風向きは110度、風速は5ノット、視界は10km」

管制「また、北で雨が降っているのが見えます。雲量は高度1600フィートで5オクタ、5000フィートで5オクタ。気温は22度、22度です。QNHは1018ヘクトパスカル、1018ヘクトパスカル、以上です」

※オクタ(Okta)雲量。簡単に言うと空がどれだけ曇っているかという意味。国際式で0~8の9段階で現される。5オクタは中度の曇り。

※QNH、高度計規正値。気圧高度計の高度ゼロに対応する気圧でQNHは海抜高度を得るための規正値。

295便「了解、1018」

管制「了解。えー、それから、そちらが希望するどちらの滑走路も使えます」

長い間

管制「パイロットの意思を伺いたいのですが」

295便「えー滑走路、えー13に降りたい」

管制「滑走路14確認(13と返答したが、なぜかワン・フォーと応答している)」

295便「確認」

管制「承認しました。えーフリック・アン・フラック(モーリシャスの地名)NDBに向かってください。50まで近づいたら連絡ください(この50が何なのかは不明)」

※NDB (Non-Directional (Radio) Beacon)無指向性無線標識。主に中波を用いて航空機の航法援助を行う無線標識。

295便「了解」

その後、無線が途絶えてしまいます。管制とのやり取りの中で計器が使用できないとありましたので、おそらく火災による電気系統の破損によるものだったと考えられています。そして機体はこの最後の通信より3分後に、現地時間午前4時頃にモーリシャスから北東へ250キロの位置、沖合のインド洋上に墜落してしまいます。

機体は激しく海面へ落ちたため砕けてしまい、原形を留めていませんでした。加えてこの海域は水深が5000mという深さであったため、機体すべての引き上げは不可能でした。しかし可能な限り引き上げられたものと調査機を使った深海の調査で、貨物室にある荷からの出火による火災は間違いないとされました。

そのとき機が搭載していた荷はコンピューター関連の部品が殆どでした。このためバッテリー類が発火の原因かと思われましたが、調査の中で驚くべきことが判明します。

それは出火元とされる荷があったパレット・・・パレットは全部で6枚あり、そのうちのひとつが出火したのですが、パレットの隣りにあった梱包材のナイロンネットから

「溶けた鉄粉が超高速で拡散したという、通常ではありえない現象」

が発生していた、というものでした。

つまり出火した荷は自ら燃えだしたのではなく、隣から発せられた溶けた鉄粉を火種に燃え出してしまったということなのです。

さらに出火元とされる、この燃えた荷の位置の真上の機体部。つまり燃えた箇所の天井の部分が、300度以上の高温になっていた痕跡があることもわかりました。

一般に旅客機の速度は、この事故に遭った機体ボーイング747では最高時速が988キロ。通常フライトでは800~900キロで飛びます。そしてこの機のように国際線であれば平均で33000フィート、高度10000メートルでの飛行になるので、その外気温は-40~-50度になるといわれています。南極点の平均気温が-49.5度といわれれば、この温度がいかに低いかがわかると思います。

なので・・・空気が遮断されているとはいえ、客室のように空調も与圧もない貨物室は、その影響を受けまさしく極寒の世界となります。そんな状況下に常にさらされていたところが300度以上の高温に達するとは、素人が聞いても明らかにおかしいとわかります。。貨物室には一体何があり、そして一体何が起きていたというのでしょうか?

実は、このときアフリカ大陸にあるアンゴラ共和国(アンゴラ人民共和国・当時)は、南西アフリカ人民運動という組織と、アンゴラ全面独立民族同盟、アンゴラ民族解放戦線という組織が対峙する形で、アンゴラ内戦といわれる戦争状態にありました。

内戦と聞くと、その国内だけでの争いのように感じますが、実のところアンゴラ人民運動には当時のソビエト連邦、キューバ、南西アフリカ人民機構が、アンゴラ全面独立民族同盟とアンゴラ民族解放戦線にはアメリカ、南アフリカ、ザイールがついていたという図式・・・そうこれは冷戦時代によくあった、いわゆる米ソ代理戦争だったのです。

しかし、背景に他国がつきながらも、この戦争時はアパルトヘイト政策により外からの武器関連の輸入が困難になっていました。そのため南アフリカは国絡みで、国営である南アフリカ航空を使い武器関連品を内密に輸入していたというのです。

この事故は、そのようにして南アフリカ航空機に密に積み込まれ運ばれた武器関連の何かが、飛行中なんらかの理由で反応してしまい火災に至ったとの結論が、事故原因であったというのが現在では有力になっています。

事故発生時、機内では貨物室から客室に一酸化炭素が大量に流れ込んだため、搭乗者の殆どは墜落前に一酸化炭素中毒で命を落としていたか、または意識を失っていたのではないかと予測されています。

そして客室からコックピットまで達した一酸化炭素が、パイロットらの意識を奪ったか、またはそれより前に機が火災により飛行能力を失い制御不能に陥ってしまったのか・・・とにかく機は飛行することが出来なくなり、最悪の事態を迎えてしまったのです。

この遠征はタイガー・ジェット・シンが招聘し、薗田の結婚式で仲人だった馬場さんが新婚旅行を兼ねブッキング、旅費を自ら出したという、いわば馬場さんが絶大なる信用、信頼を寄せる薗田のために組んだものでした。そのため後年まで馬場さんは、この件に関して自分を責める気持ちが消えなかったといいます。

12月11日、87年の世界最強タッグ最終戦の日本武道館で行われた10カウント。これほど悲しそうな表情の馬場さんは見たことがない

12月16日、後楽園ホールで行われた追悼式。告別の辞を述べる馬場さん。寂しそうな背中が感情を物語る・・・

また、この事故はその規模の大きさから、テレビでも各局で大きく取り上げられました。NHKのニュース・・・確か、夜の21時からやっていたNHKニュースだったと記憶しています。これには、この遠征のブッキングをしたタイガー・ジェット・シンが現地でインタビューに答える様子も流れました。

インタビューされるジェットシン

悲痛なシンの表情・・・見ている我々も言葉にならない

同じくニュースより。薗田の「残りの人生、ボクにください」というプロポーズの言葉から、結婚して2ヶ月で、まさかこんなニュースを聞くことになろうとは・・・

飛行機に不備はなく、フライトは順調でした。何事もなく到着するはずでした。そしてたくさんの思い出と共に、ふたりは帰ってくるはずでした。しかし帰ってきたのは変わり果てた姿の薗田と、真弓さんのブレスレッドのみでした。

これは本来、起こるはずのない事故でした。だから・・・自責の念にとらわれてしまっていましたが、これは遠征を決めた馬場さんのせいでもなく、招聘したジェットシンがわるいということも、まったくありません。起こるはずのない事故だったからです。

でも、起きてしまいました。欲にまみれた人間なんです。これは国の威信や国の力の誇示ばかりしか頭にない、そういう欲ばかりの人間のせいで起きてしまったのです。

どんな大きな事件や事故も、時が過ぎれば風化してしまい、いつしか忘れ去られてしまうものです。この事故も、もはや思い出す人もいないかもしれません。しかし、その真実が知らされないまま、葬り去られてしまうのは・・・犠牲者があまりに報われないと思いました。薗田夫婦のこと、事件のこと・・・せめてここを読んでくれている人だけにでも、伝わればと・・・思います。


本年はこれが最後の更新になります。今年もありがとうございました。