「『日之本文書』と鹿島史学」「真実の日本史 真実の世界史『日之本文書』連載1万回1376回

 

15章 鹿島史学とバクトリア王ディオドトス=秦の始皇帝説

 

 秦王国はペルシア・バクトリア王国の亡命政権でティオドトス王が秦の始皇帝になった

 

 鹿島曻の歴史的発見は数限りなくあるが、その中でも最も衝撃的なものの一つは、中国の秦王国はペルシアのバクトリア王国の亡命王国で、その知事を務めていたいディオドトスが秦の始皇帝になった、そして始皇帝陵の秦の兵馬俑はペルシアの軍団であったということである。秦始皇帝の肖像画はどれを見ても屈強な体つきに彫りの深い顔、濃くて太い眉毛、もみあげ、ヒゲ、碧眼のユダヤ系の顔をしており、とても中国人には見えない。「そういわれてみればそうだ」と納得する人も多いと思われる。

鹿島曻は『孔子と失われた十士族』は述べている。

「『秦本紀』はアケメネス・ペルシア史の漢訳であり、始皇帝の秦は、ディオドトスのバクトリア王国のことであった。このことを前提として『史記』を考えると、バビロンの虜囚となった南朝のユダ族が、バビロン滅亡ののちペルシア王朝に仕え、アレクサンドロス大王に追討されたとき中国に流入したこと、そしてバビロニアに敗れたとき、ギリシアに亡命したユダ族がアレクサンドロスに従軍したことが想像されよう」

鹿島曻はまた『国史正義』の中で、次のように司馬遷の『史記』「秦本紀」について、述べていた。

「『史記』は秦が前二一三年に大規模な焚書を行ったと記しているが、この焚書の目的は、バクトリア王ディオドトスを始皇帝政(まさ)とし、その支配する中国国家を秦帝国とするという壮大なデッチアゲであった。そしてこの歴史偽造に、漢の時代になってから漢が秦帝国を改代したという創作を加えて、今見るような『史記』ができ上がったのである。

拙著『史記解』『歴史』において、秦の始皇帝がバクトリアのディオドトス一世であることを詳しく論じたが、『史記』にその父となっている呂不韋はユダヤ人のラビであったらしい。秦の文化にユダヤ人の姿が見えかくれするのはそのためであろう」

 

始皇帝は焚書坑儒で秦以前の中国史を封殺した

 

 秦建国の当時の中国は戦国時代で、魏、韓、趙、燕、楚、斉(せい)、中山の七雄が存在していた。しかし、ここに忽然と現れた屈強な武人と強固な武器で組織化された異国の軍団が侵略してきたために、たちどころに征服され、屈従するか、逃亡するかを余儀なくされた。権力を掌握した始皇帝は反抗する儒学者は生き埋めにし、屈従した儒学者たちに彼らが蔵書としてもっていたオリエントの史書を漢訳偽造し、『史記』の種本ないしは核となる「秦本紀」を仕立て上げた。首都咸陽(かんよう)で生き埋めにされた儒者は500人近くにもなり、彼らはユダヤ系のイスラエル南朝系のガド族であったという。始皇帝は北朝系のシメオン族といわれるので、この両族の対立が鮮明になり、これが秦王国の分裂、滅亡の最大の要因にもなった。

この焚書事件のときに、イスラエル人のガド族が始皇帝による弾圧から逃れるために、鉄鐸、銅鐸文化の祭祀者だった猿田彦を先導者として秦国を脱出して、対馬海峡を渡り北九州の糸島半島に上陸して前86年、「旧伊勢国」を建てたという。筑紫の平群の地、平原の地であり、ここにイッサカル族、セブルン族も結集した。猿田彦はこの地に王宮を造って、アレキサンダー帝国、ペルシア帝国経由のヘレニズム文化による一大青銅器文化圏を作り上げたのだという。

秦帝国を作り上げたユダヤ人は、もともとギリシア人に支配されたので、暦法もギリシア暦法を採用し、ペルシアの兵隊を組織した常備軍を創り上げた。それを再現したのが始皇帝陵の兵馬俑であった。彼は度量衡も統一し、中国史初の統一国家を建国した。そして始皇帝は秦国がバクトリアの分国であること、自らがギリシア系ユダヤ人であることを隠すために中国の史書をすべて焼き捨てた。そして始皇帝の父親で大商人の呂不韋(りょふい)によって育成されていたユダヤ系の学者、ジュウ学者たちを始皇帝は生き埋めにしてしまい、呂不韋もまた、始皇帝と複雑な親族的な軋轢があったために、自分の息子によって自殺に追い込まれた。その後も中華帝国のユダヤ系支配者たちは、前漢の司馬遷らの御用史学者を動員して、オリエントの国々から歴史を借用し、ニセの史書を作り上げられることになる。

 

秦以前の中国史は『呂氏春秋』と『史記』によってシュメールの借史がなされた

 

鹿島曻は『孔子と失われた十士族』の中で、述べている。

「『秦始皇本紀』は、『呂不は河南省の大商人で、妊娠していた妾を秦の王子子楚に与えた。その妾の子が秦の始皇帝となったから、呂不韋はその実父であると述べる。また『始皇帝が即位すると、呂不韋は相国(しょうこく 漢代に於ける廷臣の最高職。現代の首相に類似する)となり、仲父と称し、食客三千人を集めて『呂氏春秋』を編纂した。のちに、かつて子楚に与えた妾―始皇帝の生母のスキャンダルに連座して失脚し、十一年、始皇帝の命により自殺した』と述べるから、始皇帝は実父殺しを犯したことになる」

「借史である前漢の『史記』は構造上『呂氏春秋』の路線上につくられているから、中国史の借史の原点は呂不韋の下にいた儒家に始まるといえよう。その編集にあたった儒家たちが殺され、焚書されたことを考えると、焚書の理由は借史かくしにあったろう。『旧約』はシュメールに広く伝えられた大洪水の説話を、ユダヤ人だけの神話に作りかえた。してみれば、ユダヤ人らしい呂不韋が、一種の呪術的な効果を狙って、オリエント史を中国大陸にあてはめた歴史書を創作させたことも、驚くほどのことではあるまい。神話と歴史の借用は、この時代の優れた先端技術だったのである」

鹿島はまた、秦始皇帝陵出土の兵馬俑が中国兵のそれではなく、ペルシア軍団のものであることを考証し、さらに新たな地下宮殿の発見を中国政府が隠ぺい工作したことなどを鋭く指摘している。これについては日本に運ばれた兵馬俑しか見たことがない人にでも判るように、写真入りの『秦始皇帝とユダヤ人』で詳しく述べている。

偽史、借史シンジケートを創作したのは秦始皇帝とその父親である呂不韋であり、彼らは失われた十支族の末裔であり、ユダヤ人権力者であった。そして、偽史、借史シンジケートを完成させたのは中国最大の歴史家である司馬遷であり、その偽書の最高傑作は、中国最高の史書『史記』にほかならなかった。彼もまた中華帝国のユダヤ人支配層の代理人であった。

その後、偽史、借史シンジケートはアジアでドミノ現象を引き起こし、中国、韓国、倭国でも偽史、借史シンジケートは十二分に機能し、彼らの生み出した偽史、借史体系に組みこまれた。その代表的史書は、司馬遷の『史記』であり、百済史、新羅史、高句麗史からなる『三国史記』であり、倭国では『古事記』『日本書紀』にほかならない。

これらの偽史、借史シンジケートを創造、確立、継承してきたのは、失われた十支族の中の最上層部、中華帝国の支配者、韓三国の支配者、倭国天皇制朝廷なのであり、それに連なる現代のイスラエル、倭国の失われた十支族の研究者群なのである。彼らが『史記』や『三国史記』や『古事記』『日本書紀』をありがたがり、持ち上げるのは必然的帰結なのである。

韓国三国も倭国朝廷もミニ中華帝国、中華帝国模倣国家にほかならなかった。

 これらの失われた十部族の末裔である帝国支配層は周辺諸国、周辺先住民やシュメール共同体からやってきていた民衆を支配し、略奪し、篭絡した張本人であり、ユーラシア大陸先住民、すなわち日之本共同体国家とは相いれない存在なのである。