坂本龍馬、五代友厚は、ともに、激動の時代に生き、
そして、今もその名を知られている。
龍馬と五代の二人のこと、大阪港とのゆかりのある地をみる。
ー天保の大川浚えと築山・天保山(1831年)ー
安治川は、新淀川が開削されるまで淀川の本流であった。
淀川の河口では土砂流入で浅くなり、天保2(1831)年から2年間、
安治川を浚渫したとき、土砂を積みあげてできた高い築山を
天保山と呼び、港の目印とし、この港を天保山と称した。
天保の頃約20mの築山が現在約4.5m 五畿内掌覧(天保12年・1841年)
ー坂本龍馬と天保山(1866)ー
坂本龍馬は、慶長2(1866)年1月24日未明、京都伏見奉行所役人の
襲撃を寺田屋で受け、寺田屋を脱したお龍とともに、
伏見薩摩藩邸に脱し、西郷隆盛の庇護を受けた。
寺田屋の傍の濠川の船着場にある「龍馬とお龍、愛の旅路」像
同年3月5日、龍馬、妻お龍は、大坂の天保山から
薩摩藩軍艦三邦丸に乗船した。
大阪湾に注ぐ天保山付近の安治川渡船場
そして、鹿児島の天保山へ向け出帆した。
鹿児島入港後、龍馬・お龍は、霧島や高千穂登山へと足を延ばす。
ー坂本龍馬と五代友厚(1867年)ー
慶応3(1867)年4月23日、いろは丸と紀州艦明光丸が
讃岐箱ノ崎沖で衝突し、いろは丸が沈没する。
いろは丸と紀州藩船の衝突した鞆の浦(広島県福山市鞆の浦)
5月28日
紀州藩、薩摩藩士五代才助(のちの五代友厚)に問題の
調停を依頼する。
5月29日
龍馬、いろは丸事件賠償額について、調査不十分を理由に仲介の
五代才助への対応を保留する。
同日
龍馬、小谷耕蔵らにいろは丸事件交渉の成立を伝える手紙を記す。
6月3日
後藤象二郎、龍馬と面談し、小銃の代価について五代才助のもとへ
龍馬を派遣する。
ー大阪開港・川口居留地と五代友厚(1868年)ー
慶応4(1868)年7月、大阪開港に伴い、安治川河口から6km上流の
川口町に外国人居留地が設けられた。
大阪の開港の地 川口居留地跡(本田小学校横)
五代友厚は薩摩藩士で、幕末に欧州視察し、
明治維新政府では、外交官に起用され、
京阪神で起こった事件、神戸事件(1月)、2月堺事件、
バークス公使襲撃事件の処理にあたった。
大坂細見図 弘化2(1845)年
五代友厚は、各国の領事に競売を通知し、
各国商社・個人が各区をイギリス(13)、アメリカ(4)、
プロイセン(4)、フランス(2)、オランダ(2)、ベルギー(1)の6ヶ国が落札した。
ー五代友厚と大阪ー
明治2(1869)年5月、横浜勤務を政府に命でられ、2ヶ月後官職を辞し、「官界に人材あれど、民間に人なし」と、大阪の商工業活性化のために、大阪に移り住む。
五代は、旧貨を買い集め、今宮村(西成郡)に金銀分析所を創設し、造幣寮に納入した独占的事業で、財を成した。
のちに鉱山事業(明治4年)など多数の事業を起こし、堂島米商会所、大阪商法会議所などの設立に指導的役割を果たした。
五代友厚は明治18(1885)年に49歳の若さで病死。
大阪商工会議所前の五代友厚像
ーその後の大阪港ー
川口は河川港で、水深が浅く、大型船が入港できず、
居留地の外国人は神戸港へ移住し、川口は衰退する。
ー大阪港第一次修築工事(1897-1929)ー
大阪港修築工事(大1次・築港事業)が大阪市により開始される。(明治30年)
天保山周辺の埋め立てなどが行われ、大阪市街から天保山までの市電と
大桟橋(現中央突堤)が完成する。(1903年・明治36年)
ー大阪港第二次修築工事(1929-)ー
港の利用者は増えず、築港事業は中止されるも、第一次世界大戦景気で、
1929年から「大阪港第二次修築工事」が開始される。
北港などができ、大阪港は拡大したが、第二次世界大戦があり、
工事は中断し、大阪空襲で甚大な被害を受けた。
ー弁天埠頭と大阪港ー
戦後、安治川、尻無川などを拡幅、内港化し、
その土砂で地盤沈下の激しい此花区、大正区の
海抜0m以下地区の盛土を行った。(大阪港修築10ヵ年工事)
安治川を拡幅する工事は昭和23年に始まり、岸壁や埠頭が整備され、昭和40(1965)年に弁天埠頭は関西汽船の船着場として開業される。当時、旅客船は、四国・九州方面で、地下鉄中央線・大阪環状線が開通し、便利性高く、賑わっていた。安治川、尻無川などの拡幅、盛り土や家屋の移築が完成し、安治川内港(弁天埠頭)や大正内港ができる。
この間、南港の埋め立ても開始され、大阪港の拡大が続く。
その後、カーフェリー時代となり、南港のフェリーターミナルに移り、
平成7(1995)年に弁天埠頭は廃止された。
現在弁天埠頭は、 市設の突堤のみとなっている。