すえよしの俳句ブログ

『NHK俳句』1月号を読む(6) 今回の「わが師を語る」は三田完さんによる長谷川かな女さん。

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『NHK俳句』1月号を読む(6) 今回の「わが師を語る」は三田完さんによる長谷川かな女さん。

(テキストでは長谷川かな女さんは次のように紹介されていました)明治20(1887)~昭和44(1969)年。東

京生まれ。私立小松原小学校高等科卒業。2年、英語の家庭教師であった「ホトトギス」の俳人・富田詔三(のちの長谷川零除子)と結婚。翌年、零餘子の勧めで俳句を始める。「ホトトギス」に投句。高浜虚子が女性俳人育成のために始めた婦人俳句会の幹事役も務める。杉田久女・竹下しづの女と並び、大正初期の「ホトトギス」を代表する女流俳人となる。大正10(1922)年、零餘子とともに「枯野」創刊、活躍の場を広げる。昭和3(1928)年、零餘子を失う。その直後に自宅が全焼、埼玉県浦和市(現・さいたま市)に移り住む。5年、「水明」を創刊・主宰。8年、浦和市名誉市民に選ばれる。1年、紫綬褒章受章。句集に『龍胆』『雨月』『胡笛』『川の灯』『定

本かな女句集』『牟良佐伎』等。随筆集に、『小雪』『続小雪』等。評論に『加賀の千

代』がある。


○紹介者の三田完さん。

(テキストでの紹介)昭和31(1956)年、埼玉県生まれ。祖父母は長谷川零餘子、長谷川かな女。慶應大学文学部卒業。NHK番組ディレクター、プロデューサー、退職後も番組プロデュース、音楽プロデュースに携わる。平成12(2000)年、『櫻川イワンの恋』で第80回オール讀物新人賞受賞。19年『俳風三麗花』で第137何回直木賞候補。『絵子』『暗闇坂』『乾杯屋』『当マイクロフォン』『マリちゃん』『草の花』『黄全街』『俳魁』『鵺』『あしたのこころだ 小沢一郎的風景を巡る』『不機嫌な作詞家阿久悠日記を読む』『歌は季につれ』など著書多数。


※本名は長谷川敦さん。お母さんは長谷川秋子さんですね。お父上、博さんは零余子、かな女夫妻の養子。『俳風三麗花』は私も読みました。「小沢昭一的こころ」はもう誰でも知っているラジオ番組、そのプロデュースが三田完さんだったんですね。

▪️葉鶏頭端書一ぱいに書きにけり(明治43年作『龍胆』昭和4年刊)

夫・零餘子の勧めで句作を始め、東京都墨田区の向島百花園に出かけて想を得た。「ホトトギス」初入選の句。


▪️時鳥女はものゝ文秘めて(大正2年作『龍胆』昭和4年刊)

鳴きつる方を眺むれど、姿はない――正体をなかなか明かさぬ時鳥に似て、女たちの胸のうちも。


▪️羽子板の重きが嬉し突かで立つ(大正3年作『龍胆』昭和4年刊)

保名、鶯娘、暫…。華やいだ押絵の羽子板は大切に抱えて持つだけ。東京杉並の墓所に句碑がある。


▪️願ひ事なくて手古奈の秋淋し(大正5年作『龍胆』昭和4年刊)

手古奈(手児奈)は相次ぐ求愛を厭って入水した伝説の美女。その霊堂に詣で、何を願えばいいのか。


▪️呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉(大正9年作『龍胆』昭和4年刊)

杉田久女の〈虚子ぎらひかな女嫌ひのひとへ帯〉に返した句という風説があるが、実際はそれより15年前の作。

▪️袴つゝみて使に渡す朧かな(大正14年作『龍胆』昭和4年刊)

出先の零餘子が使者を寄こし、袴が入り用との伝言。外は朧夜。そして、公私ともに多用な夫の日常も朧。


▪️芭蕉裂く風にいつまで耐ゆことぞ(昭和3年作『龍胆』昭和4年刊)

7月、零餘子没。9月、柏木の自宅全焼。両親と零餘子の位牌だけ持って焼け出された。12月、浦和(現・さいたま市)へ転居。


▪️藻をくゞつて月下の魚となりにけり(昭和5年作『雨月』昭和14年刊)

仲秋の名月の宵、井の頭公園(東京都三鷹市) の池畔で見た風景。前月、幾多の苦難を乗り越えて「水明」が創刊された。


▪️生れたる日本橋の雨月かな(昭和9年作『雨月』昭和14年刊)

墨田川で月見をするつもりが、あいにくの雨。月は見えずとも、生まれ育った町の灯や川の匂いはいい。


▪️虫の卵を育てゝゐたる冬の芝(昭和13年作『雨月』昭和14年刊)

師走の大正天皇祭に多摩御陵にて詠む。ふと足もとに眼を凝らし、小さな生命が眠っているのを見つけた。

▪️水入れて春田となりてかがやけり(昭和20年作『胡笛』昭和30年刊)

第三句集『胡笛』巻頭の一句。各地で空襲がつづく春だというのに、春田の煌めきは何を語っているのか。


▪️西鶴の女みな死ぬ夜の秋(昭和20年作『胡笛』昭和30年刊)

戦争末期、本土決戦が間近に感じられる夏の夜、たまさかの涼にふと思うーー少女のころに読んだ物語を。


▪️曼珠沙華あつまり丘をうかしけり(昭和21年作『胡笛』昭和30年刊)

終戦から一年余を怪て、公園に咲く曼珠沙華の色がひときわ限に染みた。さいたま市別所沼公園に句碑が。

▪️ものの芽の渦巻き上りゴッホの絵(昭和22年作『胡笛』昭和30年刊)

身近な実景が名画に。「絵になる風葉を探してはいけない。風景のなかに美を見つけろ」とはゴッホの言葉。


▪️水仙の蕊(しん)に宿せり五黄星(昭和25年作『胡笛』昭和30年刊)

五黄は強運の星回り。堂々可憐な水仙の蕊にその運気を見た。ちなみにかな女自身の星も五黄土星。


▪️雨滋き萩の盛りを歌人の死(昭和28年作『胡笛』昭和30年刊)

「折口信夫博士逝去」と詞書が。万葉の世、桜より繁く歌に詠まれた花は萩であった。


▪️藤棚を透かす微光の奥も藤(昭和30年作『川の灯』昭和38年刊)

埼玉県春日部市牛島への吟行で詠む。みごとな房がひしひしと重なる藤棚は、当時も今も国の特別天然記念物。


▪️万太郎が勲章下げし十三夜(昭和32年作『川の灯』昭和38年刊)

この年の十三夜は11月4日。新聞には、前日の文化勲章親授式の写が。十五夜ではないところが万太郎。


▪️新ら畳辷り易くて乙鳥(つばめ)来る(昭和38年作『牟良佐伎』昭和44年刊)

香り高い新畳と滑らかに飛翔する燕――清しさを詠んだ当人は脚のヘルペスに苦しみ、室内に籠もっていた。  


▪️秋の蟬死は恐くなしと居士はいふ(昭和44年作 遺稿)

この短冊を句友に贈った直後、今際の病床に臥す。蟬吟のかなたにいる居士とは、亡き零餘子であろうか。


○本文にあった「かな女と戦争」(三田完 記) より一部を紹介します。


祖母・かな女は生涯洋服を着たことのない明治の女性だった。晩年は朝六時に起床して自室で観音経を唱えるのが日課で、食が細く、声高に喋ることはなく、猫が好きで、食卓で孫たちがはしゃぐのを呆れたように眺めていた。


祖母は大きな窮地を二度経験している。一度目は昭和3年…夫、零餘子が41歳で早世し、その直後、追い打ちをかけるように新宿・柏木の自宅が全…焼け出されるかな女は埼玉県浦和に居を移し、周囲の句友たちの助力を得て俳誌「水明」を創刊する。


かな女第二のピンチ…ある時期の作品が句集からまるまる抜けている…。大東亜戦争中6年間の作品が、かな女の句集には載っていない。…「敗戦近い時期、私の父である博に召集令状が来た前後のことを書いた「水蜜桃と二等兵」という文章がある。入営を祝う人々が集まった神社の境内で、かな女は歌も万歳も口にすることができず、皆の背後でじっと身を震わせるだけだった。後日、連隊にいる息子に面会に行き…面会室で持参した水蜜桃五個の包みを膝に広げると、博はすぐさま飛びつき、目にもとまらぬ早さですべて平らげた。皮も剥かず、背を屈めて獣のように…。


同同期のかな女の日記が、現在さいたま文学館に所蔵されている。読むと、食糧や日用品の配給物々交換の記録ばかりで、俳句の一行もない。俳句はかな女にとって、声高く武運を析るものでも食糧難を嘆くものでもなかった。国民の生活がとことん追いつめられ、一億玉砕が現実の影として肌身に迫った夏、ついに覚悟を据え

た静かな呟きが、〈西鶴の女みな死ぬ夜の秋》だったのではないか。


○次回の「わが師を語る」は、寺井谷子さんによる「横山白虹」。


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