三日月の館

吉見百穴(埼玉県比企郡吉見町)

テーマ: 名所旧跡

場所 埼玉県比企郡吉見町大字北吉見324

 

古墳時代末期の横穴墓群です。

 

松山城の隣にあります。

説明板。

【吉見百穴】

「百穴」の名が文献にみられるのは今から二百年位前からで、江戸時代の中頃には「百穴」の呼び名も生まれ、不思議な穴として興味をもたれていたと思われる。
「吉見百穴」が科学的に検討されだしたのは明治になってからで、内外の著名な考古学者により調査が行われ、横穴の性格をめぐってさまざまな意見が発表された。
明治25年、坪井正五郎氏(当時東京大学院生)により大発掘が行われ、人骨・玉類・金属器・土器類が出土した。

坪井氏はこの横穴を土蜘蛛人(コロボックル人)の住居として作られたもので、のちに墓穴として利用されたものであると発表した。

しかし、大正時代になると、考古学の発達によって、各地で横穴の発見、発掘がなされ、出土品や横穴の構造から、この横穴は、古墳時代の後期に死者を埋葬する墓穴として作られたものであることが明らかにされ、「住居説」は、くつがえされることとなった。

そして、大正12年には、「吉見百穴」は我が国の代表的な横穴群として、国の史跡に指定された。

戦時中、横穴群のある岩山に地下工場の建設が行われ数十基の横穴がこわされたが、戦後、吉見百穴保存会が結成されて、積極的な保存管理が行われ、昭和36年には、吉見村が管理者となって引続き管理がおこなわれ今では「吉見百穴」は多くの人々に愛され親しまれる史跡となっている。

また、最低部の二つの横穴に、底や壁からかすかな緑色の光りを発しているヒカリゴケがある。

このコケは、山地に多く、平野にあるのは、植物分布上、きわめて貴重とされ国指定天然記念物となっている。

 

平成10年3月

吉見町・埼玉県

 

案内図。

まず、資料展示館へ。

説明板その1。

その2。

お隣の松山城の縄張図もあります。

吉見百穴へ。

また説明板。

入り口。

中へ。

広い。

戦時中に軍需工場として使われたため破壊されてしまった。

説明板その1。

その2。

もう一つの説明板。

ヒカリゴケ。

登って行く。

横穴の構造。

横穴に葬られた人々。

またまた説明板。

高台に登ると松山城が見えた。

松山城を攻めた武田信玄が吉見百穴を見て「もぐら戦法」を思いついたとか。

吉見百穴は生きている。

棺座の工夫。

どれどれ。

玄室の形。

百穴あるのかな?

現世と死後の世界。

横穴を掘った人々。

横穴を掘った工具。

吉見百穴を後にする。

 

 

(おまけ)

 

銘菓五家宝。

う~ん。

お隣の松山城の側面に岩窟ホテルがあった。

今は閉鎖されています。

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