源法院の伝説と昭和そして今 | 市民が見つける金沢再発見

源法院の伝説と昭和そして今

【浅野川大橋→中の橋間】
弘法大師霊場で、本山は高野山。臨川山源法院のご本尊は「不動明王」観音様は「千手観世音菩薩」で第二十六番札所。現在、源法院の 納経、御朱印は、平成29年(2017)より源法院で執行されています。


連絡先は、〒920-0980金沢市主計町1―6「源法院」

住職 小松龍正 電話080-3741-8088 


源法院は、約1200年も前の大昔、弘法大師によって建てられたという伝説のお寺です。明治に編集された「皇国地誌」には、“元和3年(1617)僧長浪開基建立す”と書かれているそうですから「再興」されたものか、はたまた、弘法大師伝説は単なる言い伝えであるかは定かではありません。


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(源法院)

他に言い伝えとして、旅に出る人や、早道飛脚の道中守護の祈願所と言われています。また、住持阿闇梨長浪は、加賀三代藩主前田利常公の信頼厚く、梅鉢紋の使用を許されたとも伝えられています。


幕末の侠客綿津屋政右衛門の自伝には、天保年中(1830~1844)、雪害で破却したのを竹下武右衛門、酒井和左衛門等の尽力で再建されたと書かれているそうです。また、その頃には、川向こうの東の茶屋町の芸妓達との縁も浅からぬものが有ったように言い伝えられています。尚、竹下、酒井の両人は、武士であったと思われますが、どのような人物であったかは定かではありません。


卯辰山にあった久保市山法住坊金剛寺が明治維新の際、神仏混淆を廃止され、別当法住坊は復飾して神職になり久保市乙剣宮として、前田家が入城する以前にあった新町に移転します。その時、法住坊金剛寺の仏体仏具を取除かれ、その不動明王の本体が源法院に託されたと聞きます。


市民が見つける金沢再発見-弘法
(弘法大師霊場の石碑)


昭和の源法院
下記は、尾張町商店街振興会が平成5年(1993)に発行した「老舗の街尾張町シリーズ16」に源法院の尼僧“南祐法さん”が書かれたものがあり、その中から、お寺に関する幾つかを抜粋し要約したものです。


“おうな”が主計町の源法院に来たのは昭和3年、21歳の時だったそうです。富山でお世話になったご隠居さんとご一緒でした。台湾で父と兄弟をなくし、母の郷里富山に帰り、6歳で尼僧生活に入ったといいます。


当時の源法院は、荒れ寺で、檀家も少なく、しかも周りはおしろいの匂いの花街で、仏に仕える身とはいえ、男の住職には落ち着かなかったということもあったのか、住職がなかなか居付かなかったそうです。


その頃、女性でもお寺の住職になれるようになり、町も住職が居ないままでは困るので、主計町の検番が、電気代や家の修理代,人夫賃等を持つということで住職をお引き受けになったと書かれています。来た頃は、荒れ果てた院内を掃除や隙間風の修理など、やることがどれだけでもあったと書かれています。


昭和の始めは、主計町も石置き板屋根の家が多く、間口も2間(3,6m)程の店がほとんどで、大きい家は数えるほどしかなくて、それに比べると小さいとは言え建坪も大きく、天井も高く、御堂も広いので、女将や芸妓が入れ替わり立ち代り来て、真夜中でも話し込んでいったと言います。


茶屋街ですから子供達は、お客様の目に触れると、商売に響くというので、家に帰らせてもらえない子もいて、仕方がないのでお寺は、今の学童保育所のようで、子供会、ひな祭り、お節句は勿論、運動会までやって障子などは張り替える暇もなく、いつもビリビリのままだったそうです。


子供達が静かだと「庵主さん、散財遊びをしよう!」といって、酒を注ぎあう真似をして「ああ~酔っ払った。」といって寝転んでいたとか・・・・しかし子供の頃、父を亡くし、厳しく寂しい尼僧生活をしてきただけに、子供達と通じ合うものがあったといいます。

市民が見つける金沢再発見-四万六千日

7月10日は、四万六千日。檀家さんに寄付していただいた提灯を道の上に吊るすと、町はお祭り気分で女将と芸妓がお参りに来ると、般若心経を唱えて、半紙にくるんだトウモロコシのお下がりを持って帰られました。数少ない檀家さんがこられると2階に上がって戴き、般若湯(お酒)を出して飲んでもらったそうです。ただ、大騒ぎすのではなく、さわやかな感じのお祭りの風情だったと語られています。


托鉢は、天候に関わらず、随分と遠くまで出掛け「人の心に手を合わす気持ち」でお経をあげ、こころの響きに託すだけだと言われています。軒下に立つと、邪魔と言わんばかりに、お金を投げつけられるようにされると、却って一生懸命お経を唱えたといいます。家に帰ると、冷たい布団に冷えた体を入れて、じっと我慢する毎日だったと書かれています。


そんな日々、女街の賑わいは対照的に映り“何という有様かしら!”と思ううちに、修業が足りない自分に気付くと共に、同じ意味で、芸妓達も、汗して一生懸命に頑張りながら、自分の生きる場所をここに定めて、休まずに続ける稽古の厳しさの中から“芸”が磨かれるのだと思ったそうです。

人それぞれに顔が違うように、それぞれの生き方があり、それぞれに汗している。尼僧も、芸妓も・・・・と書かれています。


市民が見つける金沢再発見-友禅看板
(女性の友禅作家の工房看板)

まだまだ話は尽きません。何しろ25ページに渡って、60数年もの思いが切々と綴られています。心打たれる数々ですが後のお話は、市販されていない本だと思いますが玉川図書館にもありますので、当時の様子を知りたい方は、是非お読みになることをお勧めします。


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(今の源法院と欒堂の看板)

今の源法院
境内に有る大きな枝垂桜がハラハラと花びらを散らし、急いで夏を告げます。また、百日紅の木が高くのびて、長々と花をつけ、冬の訪れを阻んでいるようでもあります。“おきな”が始めて主計町のこの源法院に来た頃には、“石ころだらけで木の一本もないところで、寂しく小さなお寺が待っていた”と書かれています。また、私の記憶では、道沿いには、4~5尺ばかりだっただろうか、石積みの高い塀が有ったように思います。


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(春、境内の枝垂桜)


今の源法院は、京都から、加賀友禅に魅せられて、誰一人知る人も宛もない金沢へ飛び込んでこられたという加賀友禅作家の友野雅子さんの工房があります。お弟子さんと共に汗して友禅染めに精進なさって居ると聞きます。


“おうな“の頃とは、随分と様子は変わりましたが、主計町は今も“おうな”がおっしゃっておられた“汗して高みを目指す”女街であることには変わりがないようです。


参考文献:著者石野琇一「老舗の街尾張町シリーズ16 尾張町を支えた女たち その陸」より。発行は尾張町商店街振興組合1993年4月。他