うれしい真実 昭和天皇は徳山裕仁 | is6689のブログ

is6689のブログ

ブログの説明を入力します。

   うれしい真実

 昭和天皇は徳山裕仁

その根拠、

1、大正天皇は子種が無かった。


2、昭和天皇は西園寺八郎と大正天皇の皇后、九条節子との間にできた子である。八郎、20歳の時である。


3、西園寺八郎の生みの親は長州藩主、毛利元徳である。八郎は18歳の時、西園寺公望公の養子となった。


4、毛利元徳は徳山藩主、毛利広鎮の子である。元徳は13歳の時、長州藩主の跡継ぎの養子となった。毛利家の本家は長州藩、分家は徳山藩であった。


 昭和天皇の先祖は徳山藩主である。「毛利」も「徳山」も地名が由来である。昭和天皇は「毛利裕仁」または「徳山裕仁」と言うことができる。


   毛利家の先祖

 大江広元(おおえのひろもと)の4男、季光(すえみつ)が始祖である。季光は父から受け継いだ所領、相模国愛甲郡毛利荘の地名、毛利をその家名として毛利家を起こした。その姓は「大江(おおえの)」である。姓と家名はちがう。姓には「の」が入る。姓は天皇が賜る。家名は始祖が決める。毛利家の姓は「おおえの」である。本来、学問で朝廷に仕える学者の血筋である。

 昭和天皇は大変知性の高い人であったと聞く。大江姓の筋と考えれば納得である。

      母方

 わたしの母方の苗字は「徳山」である。2~3年前だったか、母の弟の叔父が、徳山は山口から来たと言っていた。その時は気づかなかったが、つまり徳山藩由来の徳山とのようである。今、叔父は鹿児島市に住んでいるので詳細に確認できない。

 母方は知性の高い家系で知られている。学校の教師が多い。母の兄の伯父は小さい頃は神童と言われていたと聞く。学校の教師、工場長など務め、地域のリーダーであった。また母の弟の叔父は、中学校の数学の教師、柔道の顧問、校長を務め、世間で尊敬されている。二人の伯母も学校の先生であった。祖父は目が悪いのにいつも活字に親しんでいる人だった。血筋は争えない。最近わたしは母方の徳山は徳山藩がその由来と思うようになった。つまり、昭和天皇と同じ血筋と。

  昭和天皇とわたし

 わたしはなぜか、天皇について何も知らなかったときから、昭和天皇への尊敬があった。「堪え難きを耐え、忍び難きを忍び、天下に太平を開かんと思う。」の天皇の言葉はわたしの座右の銘と言っても過言ではない。また「罪あらば、われを咎めよ、天つ神。民はわが身の生みし子なれば。」・「この身はいかになろうとも、いくさとどめけり。ただたおれゆく民を思いて。」などの天皇の言葉は口をついて出る。

 昭和天皇は明治天皇の子との説があった。中丸という女性が唱えていた。わたしは困っていた。明治天皇は間違いなく朝鮮人である。中丸説によると尊敬する昭和天皇は朝鮮人になるからである。

 わたしにとって昭和天皇=西園寺八郎の子説はうれしい真実である。西園寺公望公は昭和天皇の義理の祖父である。ホームレス公望公は、実は日本を救った偉大な人であった。詳細は次に。

万世一系の天皇

イスラエルダビデの子孫

平安天皇ヨシュア勝信貴