病気の話 | Bitter & Sweet~膠原病・プレドニン歴34年

Bitter & Sweet~膠原病・プレドニン歴34年

日々の記録と雑感などを気ままに…

SLE=全身性エリテマトーデス

特定疾患である。
いわゆる難病のうち、原因不明で、治療方法が確立していないなど、治療が極めて困難で、病状も慢性に経過し、後遺症を残して社会復帰が極度に困難もしくは不可能であり
医療費も高額で、経済的な問題や介護等家庭的にも精神的にも負担の大きい疾病で、その上症例が少ないことから全国的規模での研究が必要な疾患を「特定疾患」と定義している。

発病は1986年。
病名が判明したのは1988年11月。
当時子どもたちは7歳・5歳・2歳。

関節痛と異様な疲労感に悩まされていた。
あちらこちらの病院に行った。
関節リウマチとの診断を下され
その治療を続けていたが症状は悪化するばかり。
実家の両親はリウマチ以外の病気を疑い、他の病院の受診を勧めた。

婚家の一族はきわめて丈夫な体質で病気とは縁がなかった。

1999年に亡くなった義父は、晩年の1997年頃からリウマチと胃がん、肺がん。
義母も1996年に胸部大動脈乖離と動脈瘤の手術を経験し、病人の気持ちを理解するようになったが、同居していたにもかかわらず、発病当時の私の心身の状態はわかってもらえなかった。

病状の深刻さを見かねた義父方の親類が紹介してくれた病院で、初めて病名が分かった。

1950年代には、5年以上生き延びる人は50%程度とされていたので(現在では90%以上にまで改善)、家族はショックだったと思う。

実家の両親は泣いた。
婚家の両親は子どもへの遺伝を心配し、世間体を気にし、ひたすら隠そうとした。

難しい病気の宣告を受けると
「頭が真っ白になった」とか
「どうして私」が、と打ちのめされるシーンを思い浮かべるものだが私は違った。

涙も出なかった。

やっと病名が確定して、きちんとした治療ができる、と安心したから。

同じ病気でも症状や経過は人によってさまざま。

私の場合は

・発熱、全身倦怠感、易疲労感
・痛みを伴う関節炎
・皮膚症状 :頬に出来る蝶型紅斑
・口内炎
・脱毛
・日光感敏症・・・そのための外出時の紫外線対策。
 当時は今ほど関心が高くなかったから、紫外線カット防止のために、夏でも長袖・帽子・サングラスといった私のいでたちを、奇異なもの、としてとらえる人も多かった。

これまでに経験した副作用・合併症の数々

・食欲増進
・バッファローケンプ(野牛肩)
・肥満・むくみ・ムーンフェイス(顔が丸くなる)
・脱毛
・非破壊性関節炎
・皮膚の痛み・皮膚の発赤・水ぶくれ
  ↑ 痛い
・血管炎
  ↑ 痛い
・帯状疱疹4回
  ↑ かなり痛い。今も痛む。鎮痛剤も効かない
・膀胱炎・腎盂炎
  ↑ お友達みたいなもの
・腎盂腎炎
・敗血症
・胃ヘルニア
・急性膵炎
  ↑ これは強烈に痛いが、痛み止めの注射が効く
 この時は、14日間絶飲食・点滴も漏れてばかりで、鼻からチューブを入れていた。
・抑鬱・憂鬱・高揚感等の精神症状
・不眠
・骨粗鬆症:背中や足腰の痛み
・胸椎・腰椎圧迫骨折数回
  ↑ 膵炎より痛い。鎮痛剤も効果なし
・肋骨骨折数回
・血栓症:手足の痛み・腫れ・しびれ、胸の痛み、突然の息切れ
  息苦しさ、うまく話せない
         ↑ 焦った
・腎臓結石
・溶血性貧血(輸血総量3600cc)
・白血球減少:抵抗力がない
・骨髄穿刺 3回
 グリグリと圧迫しながら針のようなもので胸の骨に穴をあけ、骨髄液を採る。
 その後数時間、砂袋を乗せて安静を保つ。
  ↑ 痛いけど、時間限定だから我慢できる
・心臓カテーテル検査
・皮膚、筋肉生体検査

これだけの合併症・入院をして、周囲の人たちを泣かせたことはあっても、自身は泣いたことはない。

両親の一族には結核で命を失った者が多かった。
私の母は娘時代に肺結核で肋骨を七本切除し、肺をつぶす手術をしている。
初対面の人は、その、今にも止まるかと思われる呼吸音や、背中が半分落ち込んで傾いた身体に驚いたものだ。
慢性呼吸不全になった今では、その苦しさが良くわかる。
母は明治生まれの気の強い曾祖母や祖母に仕え

※豪傑ばばさまたち

気丈に家事をこなしてはいたが、しばしば寝込んで私を不安にさせた。

南方で戦死した伯父もいる。

「もはや戦後ではない」と経済白書にうたわれたのは1956年。
私が生まれる1年前である。
戦争があり、科学も今ほど発達していなかったから、大多数の国民は、常に死と向き合わざるをえなかった。

両親の一族が特別なのではなく、このような話は、当時どこでも聞かれたことだろう。
日本人の平均寿命が男女とも50歳を超えたのは1947年である。
戦争をはじめとして、どうしようもない時代の流れに翻弄され、あまりにも簡単に人が死んでいた。
それだけに生きていることの価値を体感できた。
人との縁や絆を大切に思い、支え合う心を持っていた。
若者は、いやでも自分の将来や生き方を考えなければならないから、今よりずっと早く大人になった。

昨今、児童虐待やいじめ、肉親による殺人のニュースが後をたたない。
現代人は死から遠ざかった結果、死を軽んじ、死を考えなくなったからではないかと思う。

2003年から2004年にかけて、SLEの悪化と胸椎圧迫骨折のため寝たきりとなった。
指一本動かしても激痛が走る。
ギプスの下に帯状疱疹ができて神経痛にも悩まされた。
何をするにも人の手を借りなければならなかった。

回復は遠く、鬱病で精神的にも極限状態にありながら
「死んではいけない」という気持を保つことができたのは、自分の存在の意味を考えたからだった。
自分は多くの人の命の先にあることを思った。

命がけで生んでくれたのに、私の発病を知った時
「未熟児で、弱い体に生んでしまってごめんね」と泣き崩れた母。
・・・そうだ、私はこの時、一度だけ泣いたのだった・・・

顔も知らない伯父や祖父母や
生後一週間で逝ってしまった弟のこと。
生んであげられなかった小さな命二つ。
それが生きる力となった。