前回の記事

 

‐ホリエモン餃子屋事件から見る「コロナ脳社会」の害悪‐

 

 

・「恐怖」を煽れば 部数が増える

 

 

 

2020年11月12日号 『週刊文春』記事より

 

‐日本の死亡者数の少なさにモーニングショー赤っ恥‐

 

 

『ゴーマニズム宣言SPECIAL コロナ論』 小林よしのり著 扶桑社 2~3頁より

 

日本での死者数が少ない事実をよそに、感染者ばかりをクローズアップし、今度は「冬コロナ」は恐いと、新たな自己正当化の念仏を唱える連中は、その根底にある同調圧力やサブリミナル効果の洗脳によって『コロナ脳』へと堕落し、もはや正常な知性は働いていないと見る。

 

‐コロナ死者<自殺者(これが日本の現実)‐

 

なにせ、彼らは対抗言論に逃げ腰で、およそ論理的でない上に、数の暴力こと集団主義のゴリ押しで突っぱねるトンデモ連中だ。せいぜいマスコミに植え付けられた“恐怖のイメージ”をふわっと頭の中でグルグル回転させ、事ある言論空間で「コロナコワイ」の合唱を繰り広げるのが関の山である。

 

数多くの自殺者や経済死を量産した暁に、この期に及んで「対策の緩み」を指摘し、さらなる自粛や自由の抑圧によって、心身生活もろとも破壊をたくらむ“殺人奨励週刊誌”に対し、適切な掣肘を加えなければ日本の全体主義はより危険なレベルへ発展していくだろう。

 

‐大西つねきと小林よしのりを応援したい!(コロナ同調圧力に抗う人たち)‐

 

単なる大衆迎合心理をベースに、「部数≒金儲け」へと露骨につなげ、一方で週刊新潮の方は、そうした姿勢から一歩引いたところから、「コロナってそんな怖いモンじゃなくね?」と一石を投じた意味では、少なくともコロナ全体主義に対して「リスクを恐れない」週刊誌であることはハッキリしている。

 

無論、その「先駆け」は、小林よしのり氏やフェア党代表の大西つねき氏が挙げられるが、思想や好き嫌いの立場を乗り越え、自分たちが民主主義社会を支える“市民としての自覚”が少しでもあるのなら、批判を恐れず、各自が「得意な表現」で情報発信を根気よく続けて行くしかないでしょう。

 

 

・コロナを指定感染症から外すか インフルと同じ5類へ

 

 

 

2020年11月12日号 『週刊新潮』記事より

 

クレイジーな週刊文春や、各人の「コロナ脳」発信所では、冷酷なまでに「対策による死」を無視し続けている。

 

‐【追記】コロナではなく「対策」で命を落とす人たち(女性自殺者が急増中)‐

 

‐竹内さんで4人目『過度な自粛』が奪った命たち‐

 

結局のところ、これを直視すると自分たちの矛盾が大っぴらになり、それを全体主義でカバーするというトンデモ事態へと発展し、「非マスク者」への人権剥奪(航空/タクシーの乗車拒否OK≒憲法(前国家的権利)で保障された『移動の自由』の否定)が平然と行われる始末です。

 

‐もうお手上げ?ウイルス恐怖と差別を煽る『コロナ脳』岡田晴恵教授‐

 

さて、小タイトルにもあるように漫画家の小林よしのり氏は、かなり早い段階で「コロナの指定感染症の除外/インフルと同様の5類相当にすべき」という提言されておられたが、現代の行き過ぎたグローバリズム経済において、お金の絡み考え方『同一であること』を強要させる世界において、なかなか自国政府だけで物事を進めることに、多くの政治家たちは「支持率」を考える上で、勇気ある決断を出来ずにいる。

 

‐各国泥沼コロナ対策(最後に笑うのはだれ?)‐

 

‐小林よしのり「岡田晴恵は専門バカである」‐

 

そもそも、文化圏を跨いで歴史や社会構造の全く違う各国を「比較すること」そのものが大間違いで、いずれも総合知に欠ける見識だ。今のところ「新コロに強いアジア圏」や「新コロに弱い欧米圏」とザックリ定義づけをし、とりわけアメリカ死者数の多さは、やはり要因の一つに「お金のない者は死ね」という新自由主義的社会がベースにあって、ちょっと前のインフル大量死もそう。最近では、トランプ大統領がコロナに罹っても、すぐさま復活退院を果たしたことから、それを強くうかがえるシーンでした。

 

 

・私たちは「野蛮人」へと 脱落してしまうのか

 

 

 

『同』 46~49頁より

 

‐コロナから学ぶ「同調圧力」の病‐

 

コロナに対する「マスクをして用心する人」や「しない人」も自由です。

 

こうやって私が「言いたい放題」できるのも、民主主義社会における『表現の自由』があってこそで、これが潰えれば、あらゆる迫害やパージは逃れられません。

 

そうした人々の多様性を排除して、『公共の福祉』という権威をタテにして、他者への自由の侵害を行なえば、やがては大きな対立を引き起こし、一方が命を落とす最悪の結果となるだろう。

 

‐ホリエモン餃子屋事件から見る「コロナ脳社会」の害悪‐

 

現に、そうした悲惨な出来事は全国各所で起こっていて、私としてはマスク原理主義者たちに向けて、会社の食堂ランチ・居酒屋プールサウナ、果ては更衣室『例外がある』ことを指摘して、瞬時に論破できますが、ここに集団主義が入ってくると“数の暴力”によって、まるで自分たちは神様気分で物事の是非を決めるのです。

 

そうしたコロナ禍における大衆の行動様式を、シロウトなりに考えてみると、やはり「日本の教育」にあるのではないかと思ってしまう。

 

‐大日本帝国2.0を生きている私たち‐

 

‐なぜ人々は「言うことを聞かされる」のか(背後の金融資本主義)‐

 

巷では「左翼教育」とディスられる戦後日本の教育制度ですが、本質を見れば『大日本帝国の延長』であり、少し前までは体罰はガンガンOK。あまつさえ、今も続く自己肯定感を奪う教育によって、より他律的人格を構成し、ある種の『洗脳しやすい体質』へと作り上げ、そこに金融資本主義をぶち込んで国家や会社組織に従順な兵隊(使い捨て部品)へと仕上げる「製造の一工程」に過ぎないと考えます。

 

 

 

親の代わりに『殺生与奪権』をもった教師たちが、子どもの人生を左右し、さすがに上の動画は悲惨で、多くの批判が集まっているが、本質的に似たような場面は膨大にあっただろうし、大なり小なり、そうした教育の影響にさらされた先には、ひとり一人が自分の考えを持つことを放棄して、何か「危機を煽られる」と強いモノに依存してしまう性質を発露してしまうのかと、個人的には思っています。

 

 

<参考資料>

 

・2020年11月12日号 『週刊文春』記事

 

・同 『週刊新潮』記事

 

・『ゴーマニズム宣言SPECIAL コロナ論』 小林よしのり著 扶桑社 

 

 

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