佐久間正英氏 末期癌を告白 goodbye world
音楽プロデューサーの佐久間正英氏がスキルス性の胃がんであることを告白した。
以下佐久間正英氏の公式HPよりの転載です。
goodbye world
その昔C言語から始まったプログラム学習で必ず通る"hello world"と言う言葉。
その真逆の言葉を自分の口から公に向けなければならない日が来るとは、思いもしていなかった。
2013年4月上旬自分がスキルス胃ガンのステージVI になっている事を知る。今年から小学校の一人娘の入学式前日の出来事。
発見段階で医師からはすでに手の施し様はあまりない事を聞き(発見された転移部位の問題もあり)、手術や抗がん剤等積極的なアプローチにはリアリティを感じなかった。
かと言って、まるまる放置も釈然としないので、すぐに丸山ワクチンと中国漢方だけは始めてみた。
しばらくすると丸山ワクチンの効果か漢方の効果か、それ以前と比べると格段に体調は良くなり気力も増した。
それまで感じていた胃の不快感も弱まり、自分が末期癌だなどとは時折冗談のようにすら感じた。
それでもひと月ちょっとの間に体重は10kg減っていた。
余命をリアルに考えはしなかったが、ごく近しい人達には状況は伝えた。
この件は公にはすまい、と思った。
何故ならこの話は救いの無い情報に過ぎないからだ。
人に知られるのが困る訳でもイヤだった訳でも無い。ただ救いの無い情報が受け手に与える"力"が怖かった。
当初の2週間近くは、さすがに落ち込みもしたし、無駄なほどにあれこれ考えもした。
寝ても覚めても癌のこと、治療のこと、家族含め接する人達のこと、今後の身辺整理等に頭を煩わせた。
でもある日、それが無駄な時間の過ごし方であることに気づいた。
同じ時間を過ごすなら少しでも楽しく有意義な時を送ろうと気持ちを切り替えるのにさほど時間はかからなかった。
自分の中の癌と戦うことはすでに無意味に思えた。憎き癌細胞も自分の一部に過ぎない。
自分で自分の肉体に戦いを挑む様なナンセンスなことに思えたのかも知れない。
いつ死ぬかはわからない、でも確実にその死は一歩一歩近づいて来る …と思うと、実はそれは誰にでも当てはまる当たり前のことでしかない。
自分の余命はそういう意味ではみんなとあまり変わりはない。
そんな風にも考えた。
癌などと言う厄介な病気になってしまったが、冷静に思えば突発的病気や事故等に会うよりは、人生を振り返ったり改めて考えたり、大切な人たちの事を思ってみたり、身辺整理の時間を持てたり、感謝の心を育てられたり。
案外悪くはないのかもしれない。
そんな状況のくせに、やりたいこと、やらなければならないことは次々と新たに生まれて来る。
終息に向かう生と新たな希望の誕生との不思議なバランスだった。
そんな日常がさらに末期癌というリアリティを失わせた。
自分の日々の気持ちを書き残しておこう、とEverNoteに「Last Days」という日記項目を追加。
同時に最後になるであろうソロアルバムの構想も始めた。
タイトルはもちろん「Last Days」。
今のところ完成はおろか、手を付けてもいないのだけれど、表題曲の作曲だけはした。
最後にもう一度大好きなTAKUYAと一緒にこの作品を仕上げたい、と企ててみた。
陽の目を見れる公算は限りなく小さいけれど。
さんざん迷った末に、早川義夫さんにはメールで伝えた。
それへの返信をすぐに貰い、初めて泣いた。
止めどなく涙が溢れた。
暖かい、それこそ愛に溢れた言葉の端はしにそれまで我慢して来た何かが決壊したが如く涙が止まらなくなった。
以後何事も無いように普通に仕事をし、普通に暮らしていた。
胃ガンなので幸い痛みも無く、特に体調の不良も感じず(若干の胃の不快感と体力低下くらい)、いつも通りに元気にやって来た。
7月中旬過ぎ、突然左腕の知覚がオカシイことに気づいた。
空間認識感覚が無力化した様な何ともイヤな感覚。
手を置こうとしたところに手が行かない。
目で確認をして初めてそこに手を持っていける。
ほんの5分〜10分くらいの間の出来事だった。
咄嗟に楽器が弾けなくなるかもしれないと思ったが、不思議なことにそれは今や大した不安でもなく思えた。
翌日検査で脳腫瘍を発見。
おそらく転移。
すでに腫瘍は結構な大きさなので、放置すると障害が出るのは時間の問題。
放射線で対処できるサイズを越えているので手術しか道は無さそうだ。
30年ぶりに取れた夏休み直前だったので旅行を諦めるか悩んだが、医師の承諾もあって旅に出てみた。
初めての家族旅行中、幸い症状は出ずに済んだ。
8/3 塩釜での早川義夫さんとのライブの朝、久しぶりに内科の検診。
事態は悪転していた。
肝臓に多数の転移が認められ、脾臓にも転移。
思った以上に進行が早かったようだ。
早ければ1〜2ヶ月、長くても年内いっぱいもつかどうか。
そんな現実が突然リアリティを持って顕われた。
いよいよ最終章に入って来たのかもしれない。
今回の塩釜が最後のライブツアーになる可能性が一気に高まった。
その夜、塩釜で早川義夫さんと演奏をしながら漠然と思った。
自分はこの人の歌のために音楽をやって来たのではないだろうか。
この人と出会うためにギターを弾き続けて来たのではないだろうか、と。
そんな風に思えるほど歌にぴったりと寄り添うことができる。
16歳で初めて彼の歌に出会い、どうしようもない衝撃を感じ、そんな少年が61歳になっても同じ気持ちでその人のためにギターを弾く。
手術が済んで、いま一度演奏をすることができる身体に戻れるのなら、この人の歌でもう一度ギターを弾きたい。
10月のシカゴ大学でのコンサートまで持ち堪える可能性は低いかも知れないから、できれば9月中にでも東京でライブをできないか。
なるべくたくさんの人に二人での最後の演奏を届けることができたら、と。
そんな青臭いことを考えてみた。
8月6日、代々木第一体育館でのAARONのライブ。
その日の為だけに組んだスペシャル編成のバンドで参加。
TAKUYA、人時、楠瀬拓哉、DIE そして僕。
DIEさん以外は全員弟子(教え子)とも言えるメンバーでの前日のリハーサルはとても良い仕上がりで本番には自信満々で臨んだ。
本番3時間程前になった時、突然脳の障害が発症した。左腕、手の空間認識がおかしくなる。
楽屋でギターを弾いてみるが、まともには弾けない。
本番までの時間、時折正常に戻りまた発症し、の繰り返し。
運を天に任せる他は無かった。
本番が始まり「幸い!弾ける!!」と思ったのも束の間、一曲目の途中で全く弾けなくなった。
ネックを握ろうとすると、ネックの上に手が乗ってしまう。
その手をダマしダマしネックの下側へとすべらせネックをどうにか握る。
オープンEのコードですら頭の中で冷静にポジションを再確認しながら指をフレット上にひとつひとつ置いて行く。
そんな動作の繰り返し。普段自然に何も考えず行っている動作をバラバラに解析し再構築する様な動き。
代々木体育館の大きなステージの上でなす術も無く立ち尽くし、頭の中だけはすごいスピードで解析を繰り返しながら指をどうにか運んで行く。
そんな風にして、自分のミュージシャン人生最後になるだろう大舞台は終わってしまったが、かつての弟子達がそんな自分をしっかりと見事に支えてくれていたのが何よりも嬉しかった。
それ以後症状は消えない。時折マシにはなるがすぐおかしな感覚に戻る。
8月8日、手術に纏わる丁寧な説明を担当医師から受ける。術後にも障害は残るかも知れない。悪化する可能性もある。
自分は演奏家で、ギターをベースをその他の色々な楽器を弾く。そんな人間がもしかしたらもう二度と今までのようには演奏できない身体になる可能性もある。
弾けることが当たり前に生きて来た人間にとっては何とも奇妙な感覚だけれど、悲しい気持ちや悔しい気持ちは全く湧いては来ない。
今まで自分の演奏に絶対の自信を持って悔いなくやって来たと思える自負からかも知れない。
いや、もしかしたら、音楽よりもずっと大切な何かに初めて向き合っているからかも知れない。
やりたいこと、やらなければならないこと、やりかけたこと、守りたいモノ・人、伝えたかったこと・想い…がたくさんある。それらをどうしたら良いのか、未だに皆目検討はついていない。
明日足掛け3年掛けたウラニーノのアルバムが完成する。
自信作と言える素晴らしい作品になったと思う。
そこで今抱えている仕事は一段落。
来週8月14日に脳腫瘍の手術を受ける。
きっと元気に戻って来よう。
2013年8月9日
佐久間正英
以上
※ 原文通りですが、読み易いように行間を空けています。
佐久間氏と言えば、『BOΦWY』 『THE STREET SLIDERS』 『GLAY』 『JUDY AND MARY』 『THE BLUE HEARTS』 『エレファントカシマシ』 『筋肉少女帯』 『渡辺美里』 『テレサ・テン』など多くの日本のアーティストを手がける売れっ子プロデューサーである。
自身もギタリストとして現役にバンドを精力的にこなされている。
以前に紹介したウィルコ・ジョンソンもそうだが、少しでもたくさんの人に聞いてもらいたい。ギターを弾き続けたい。と、同じことを言ってらっしゃいます。
もし、あなたが癌になったら あなたは何をしますか?