新潟県旧黒川村/奇跡を起こした村と伊藤孝二郎村長 | をだまきの晴耕雨読

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ブログを始めて10年が過ぎました。
開始時の標題(自転車巡礼)と、内容が一致しなくなってきました。
生き方も標題もリフレッシュして、再開いたします。

2012年5月25日 新潟県旧黒川村/奇跡を起こした村と伊藤孝二郎村長



出張ででかけた「豊橋」の古本屋で「奇跡を起こした村の話-吉岡忍著」を見つけた。

この本は、新潟県にあった旧黒川村の半世紀に亘る「豪雪」と「貧困」との戦いの歴史であり、村長として、卓越したリーダーシップで、村を導き続けた「伊藤孝二郎」氏の物語でもあります。



黒川村の由来は、昔原油がわき出して川を真っ黒に染めたことからきているという。歴史は古く、1300年も前、落雷の度に火災を発生しこまっているのを「中大兄皇子」が砂を撒いて消火する方法を教えたという。

 後に「天智天皇」として即位した直後の668年に、村人たちは感謝と即位のお祝いを兼ねて近江まで向かった。「秋七月(ふみつき) 越の国 燃ゆる土と燃ゆる水をたてまつる」と日本書紀に紹介されています。

いま地方は高齢化と過疎化で消滅している集落が急激に増えている中、旧黒川村は、
昭和50年(1975)6,389人 
昭和60年(1985)6,602人 
平成 7年(1995)6,534人 
平成12年(2000)6,750人  と奇跡的に人口を維持し続けているのです。

この本の出た当時(2005年)、黒川村にはすべて村営の「スキー場」「ホテル」「そば屋」「フラワーパーク」「スポーツ施設」「クアハウス」「釣り堀」「キャンプ場」「畜産団地」「ハム工場」「ヨーグルト工場」「味噌工場」「肥料工場」「ミネラルウォーター工場」「地ビール工場」「レストラン」「天体観測施設」「などがあり、他にも第3セクターの「ゴルフ場」もあるという。

山形県との県境に近い、山間の村には鉄道もなく、豪雪が有名な寒村でした。昭和30年(1955)若干31歳の村長の誕生を機に、黒川村はダイナミックに動き始めるのです。

昭和34年(1959)には荒れ地を開墾して、共同経営の大規模な機械化農業を目指して、「青年の村」を設立します。これは過疎化の元である、次男三男対策でありました。村内の20名が参加して合宿生活を行い、3年後には新しい住宅と28ヘクタールの土地(田んぼ)が与えられたのでした。

昭和36年(1961)には国際農友会の海外研修制度を利用して、若者をドイツに農業研修に行かせています(難関で、県内だけでも競争率は100倍を超え、1名だけ選ばれた者が全国試験に臨むのでした。ドイツ・スイス・デンマークに派遣されたのは全国で9名だけでしたが、黒川村の若者は見事に選ばれたのでした。

昭和40年(1965)、村の若手職員が中心となり、木々を切り倒し滑降コースを作り、リフトが1基だけの手作りの「村営スキー場」をオープンしました。心配をよそにスキー場は大繁盛しました。有名なスキー場に気後れした、県下の人たちが詰めかけたのでした。

昭和41年同42年、2年続けて集中豪雨に見舞われました。橋も道路も寸断され、穂をつける前の田んぼは濁流に沈みました。人びとの心が折れそうな時、役場のスピーカーから村長の声が聞こえてきました。

 誰かと話ししています。相手の声も聞こえます。村長が『助けてください』と叫ぶようにしゃべっている。相手は時の「農林大臣」でした。絶対に引かない、必死と言うか強引な調子で、村長室から大臣に直接電話して談判している様子を流して、村民や職員に聞かせていたのでした。

気落ちした村人に、『大丈夫だ心配するな、田んぼはもっと立派にしてやる。壊れた橋も道路も前より立派にするんだ』と皆がもうおしまいだと思っている時、一人村長だけが頑張るんだと言った。「土石流」という言葉は黒川村の手中豪雨被害以後に一般化したという。

道路の拡幅、橋梁の掛け替え、砂防ダムの建設など、数々の要求の合計は100億円にもなりました。こんな大がかりな要求は通るまいと誰もが思ったが、事業の1つ1つが裁可され、結局ほぼ満額の財政援助が決まりました。これは、村役場が一丸となって「財政支援制度」や「補助金活用制度」を研究し、有効に活用した結果でした。

豪雨に家畜は流され、自然化の生きものは生育環境を奪われて、村から生きものが消えてしまいました。村長は『生きたものを見せなければならない。生きものが元気で生きているところを見て貰わなければ元気になれない』として、「ニジマス」の養殖を奨励した。ポンプの故障で全滅するが、その処置から「味噌漬け」や「塩漬け」という後の名物が誕生したのでした。

昭和47年(1972)に全国植樹祭が新潟県で行われました。各自治体の熱心な誘致の中、選ばれたのは黒川村でした。『2度にわたる集中豪雨災害を受け、見事に立ち上がった姿を陛下にご覧いただきたい』という「伊藤村長」の一言が決定打だとなったのです。

これは災害の見舞いに訪れた政治家たちから、『陛下は2年続きの水害に心を痛めておられる』という情報をいち早くつかんでいたからでした。

植樹祭が開かれる数週間前に、「国民年金積立金」からの融資で、「国民保養センター」がオープンしました。村内に結婚式場がなかったころは、披露宴を夫の実家か、近隣のホテルで行っていましたが、年間20組から30組の利用があるようになりました。

この保養センターは「国民宿舎胎内グランドホテル」と名前を変え、現在でも村の直営で営業を続けているのです。

昭和54年(1979)に、米の減反対策として、食肉用の繁殖牛舎三棟、飼育牛舎二棟、豚舎二棟が村営で建てられました。「胎内牛」というブランドで販売され、村内のホテルやレストランのメニューに載るようになりました。平成15年(2003)には、全国品評会で最優秀賞を獲得しています。

昭和55年(1980)、「胎内パークホテル」が開業しました。もちろん従業員は村役場の人たちが中心です。

昭和56年(1981)、隣接して村営の手打ちそば処「みゆき庵」がオープンしました。

昭和60年(1985)、日本最古の原油湧出地を示す「新クルトン記念公園」が作られました。

昭和62年(1987)、地上5階建て収容人員100名の「ニュー胎内パークホテル」を建設しました。

昭和63年(1988)、「農畜産物加工施設」が建てられ、ハム・ソーセージ・味噌の加工が始まりました。

平成元年(1989)、加工施設で製造された品々を版場する「地域活性化センター」を建設。

平成 2年(1990)、ニジマスの釣り堀「胎内フィッシングセンター」を開業しました。

旧黒川村役場には、海外に研修にでかけた職員が30名もいるという。彼らは帰国すると様々な事業を任されました。ハム・ソーセージは、スイスの農業研修から戻った若者に任されました。彼は3カ月の契約で招いたドイツ人マイスターから学んだ事を今も守り続けているという。量を増やすための混ぜ物などは一切使用しないという。

続いてスイス研修に行った者は、ヨーグルト作りが任されました。彼も多くのメーカーが経済効率の良い「ホルスタイン」の乳を使わずに、畜産団地で搾乳した「ジャージ乳」を使用しました。理由は美味しいからだという。法律的には一定割合の「ホルスタイン乳」を混ぜても「ジャージ乳」と表示できるが、それはしなかった。美味しくないものは作りたくなかったからだという。

この姿勢は「地ビール」作りにも共通しています。ドイツに研修にでた27歳の若者は、帰国後「形成基盤確立農業構造改善事業」のHPの助成金を含めた7億円の事業を任されました。ドイツから半年間の契約でマイスターを招き、挑戦しました。日本のビールもアメリカのビールも、400年以上前から使われていますドイツの基準に従えばビールではありません。

コーンスターチなどの混ぜ物を加え、賞味期限を延ばすために、最後の熟成後に濾過しているからだという。濾過して酵母を取り除くと、もう生きたビールではなく工業製品になります。黒川村のような方式でつくると、同じ味のビールは絶対できないという。そして、1週間後と2週間後では、同じビールでも違う味になるという。

黒川村の姿勢にうたれたドイツ人は予定を1年に延ばし黒川村に滞在しました。そのご全国の地ビールの指導を行い、最後は日本に永住することを決意したという。これは、最初の黒川村の人たちにモノづくりへの姿勢に共鳴したからだと言われています。

平成15年(2003)、伊藤孝二郎村長は村会議の冒頭、議長に辞表を提出しました。その任期は連続12期48年間、戦後の自治体首長としては最も長期に亘りました。村長を辞職してわずか1カ月余りの、7月28日に息を引き取りました。全身に癌が転移していたのです。79歳でした。

そして、リーダーを失った黒川村に時代の波が過酷にも押し寄せます。平成の大合併が迫ってきたのです。村長の死から2年の平成17年(2005)には、お隣の「中条町」と合併して「胎内市」となりました。それまでの独立した自治体の独自性が続けられるのでしょうか?

ロイヤル胎内パークホテルの近くに「伊藤孝二郎」氏の銅像があり、その碑文には次のように刻まれています。

「不断の熱誠と卓越した識見をもって黒川村の飛躍的発展にその生涯を尽くした」

「多くの要職を歴任、万般に寸暇を惜しんで精魂を傾けられた」

「先憂後楽を信条としてノーブレス・オブリージを行動の規範とされた」

「その偉大な御功績をたたえ、村民の総意により記念碑を建立し、永く後世に伝え顕彰する」


すべては、寒村が自己完結して暮らしていけるようにと、雇用創出を考え、睡眠時間3時間の生活を半世紀も続けられたのでした。それに応えた村民の方々も偉いと思います。鉄道の連絡もない旧黒川村だけれども、どうしても「本物」に触れたい気持ちが抑えられません。