東国の武士は新羅からの渡来人の末裔か?! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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源氏は東国武士団の長で、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた。古代、武蔵国などに入植した新羅からの渡来人の末裔と言われ、さらに東北地方の新羅神社などに源系武士の伝説が残っているとか!

下関市の亀山八幡宮に床屋発祥の地の石碑があるが、元寇(13世紀後半)に対応するため鎌倉から下関に降って来た東国武士の髪結を行う技術を新羅人(当時は高麗国の人)に習ったと書かれている。武士の髪結の文化が当時の朝鮮半島にあったことを物語っている。

これに対し、百済からの渡来人はヤマト周辺に居住してヤマト朝廷の官僚になり、古事記、日本書紀などの編纂に貢献したと言われている。

古代の朝鮮半島に居住した百済人、高句麗人そして新羅人(、高麗国の人)も、白村江の戦い(7世紀後半)から元寇(13世紀後半)ころまでに日本に渡来し、日本文化に寄与したことになる。但し、この事実と現在の朝鮮半島の住民、すなわち韓国・北朝鮮人との関係を示唆するものでは無い。


参考

① 床屋発祥の地、下関市(参考)

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鎌倉時代の中期(1264~73年)、亀山天皇に仕えていた京都御所の北面の武士“従五位ノ下北小路蔵人頭・藤原基晴”は、宝刀紛失の責任をとってその職を辞し、三男“采女之亮政之(うねめのすけまさゆき)”を連れて宝刀探索のため、当時蒙古襲来で風雲急を告げていた長門国下関に下った。采女之亮は、新羅人の髪結職からその技術を学び、我が国初の結髪所を開き往来の武士や金持ちを客として生計を立て、宝刀の探索を継続していた。

その結髪所の奥には、亀山天皇と藤原家祖先を祀る立派な床の間(とこの祭壇)があり、いつとはなしに「床の間のある店」と呼ばれ、転じて「床場(場は人の集まる場所)」、さらに「床屋」という屋号で呼ばれるようになり、下関から全国へ「床屋」が広まった。

その後、采女之亮は宝刀を見つけ朝廷に奉還し、鎌倉に移り住んで京都風の結髪職として幕府から重用された。


② 床屋と呼ぶ地方(おいでよ関門‏ @ei__yu)

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「床屋」と「散髪屋」、日本の東西では呼び方が違うようです。東日本では床屋、西日本では散髪屋が主流のようですね。下関が床屋発祥の地なのに…。

注: 九州の長崎県、佐賀県、熊本県で床屋が主流で、福岡県、宮崎県、鹿児島県でも床屋と散髪屋が混在しているが、このあたりの住民と東日本の住民が同族の武士に由来する(参考)。


③ 東北には新羅系神社が多く存在し、源系武士の伝説が多く伝わるそうです(参考)

『ずばり言って新羅系の人たちの子孫が源氏となった』(リンク)といった仮説を裏付けるものと考えられます。

『日本の神話と古代史と文化 《スサノヲの日本学》 【横浜】』「新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎」より引用します。(リンク)(リンク)

------------------------以下引用------------------------
※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。
(中略)

◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、奥州(陸奥国)

東北地方には、八幡神社・賀茂神社・新羅神社が数多く存在しており、それらの神社については源氏三兄弟(源義家〔八幡太郎義家〕・源義綱〔賀茂次郎義綱〕・源義光〔新羅三郎義光〕)にかかわる伝説が伝わっている。東北地方の新羅神社・新羅明神は、源氏の将・新羅三郎義光の子孫が園城寺(三井寺)より勧請したものであることは確かなようで、新羅三郎義光や新羅系渡来人と縁の深い土地に鎮座している。

青森県には「新羅神社」が三社と、合祠の「新羅神社」が一社ある。青森県八戸市の新羅神社(長者山新羅神社)は、神社発行の案内書によると、祭神は「素盞嗚尊」と「新羅三郎義光命」の二神、相殿に六神。御神体は、「素盞嗚尊」については「鏡」、「新羅三郎義光命」については木造の座像であるとのことである(明治二年の神社制度確立により社号を三社堂から「新羅神社」に改め、祭神も「八坂神社」「新羅神社」「金毘羅宮」となって三社合祀の社殿とされている。昭和五十一年「長者山新羅神社」と改称)。

また、青森県三戸郡南部町(南部郷〔甲斐・山梨県〕より入部した南部氏の領した土地)の新羅神社も、祭神は「素盞嗚命」と「新羅三郎義光」の二神である。青森県上北郡十和田湖町大字奥入瀬字北向十(下川目)にも新羅神社がある。祭神は「新羅三郎義光」で、創建年代は不詳だが、南部光行本人か或いはその子孫に関係があることは間違いなさそうだ。さらに、青森県八戸市八幡字八幡丁三番地の「櫛引八幡宮」に「新羅神社」が合祀されている。

◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、奥州(出羽・陸奥)

山形県南部の置賜盆地(米沢盆地、最上川の上流)の東端には新羅神社(東置賜郡高畠町)が現存している。新羅神社のある山裾を東から西にかけてそれぞれ一メートル位の間隔で八幡神社・賀茂神社・新羅神社が存在しており、それらの神社については源氏三兄弟にかかわる伝説が伝わっている。

またこの近くには、近江からの勧請といわれる白髭神社(白髭明神は大陸から帰化して近江を開墾した氏族の祭神であったものが猿田彦に転じたものとされている)がある。白髭神社も一説によればシラギの別称で、新羅神社であるといわれている。近江出身の人々がこの地に多く移住していたことが考えられそうだ。

さらに福島県相馬地方の「相馬馬追」の武士団の中には新羅明神を信奉していた武士がいたようである。「相馬野馬追」の「神旗争奪戦」の神旗の中に「新羅大明神」なる宇多郷の一条氏に関係する神旗があり、『衆臣系譜』によれば、「鎮守が素戔鳴尊垂迹新羅大明神、三井寺鎮守」とあり、更に家紋は割菱(武田氏の紋)、幕紋は菅であるそうだ。すると、素戔鳴尊=新羅大明神なのであろうか?

また、東置賜郡からさほど遠くない宮城県柴田郡には新羅三郎義光(※注1)や新羅系渡来人と縁の深い土地「新羅の郷」(宮城県柴田郡支倉)がある。「新羅の郷」の説明文(川崎町教育委員会)によると、前九年の役の折、源氏の武将・新羅三郎義光が新羅(朝鮮)の帰化人三十七人を率いて、この地に住まわせたそうだ。支倉(はせくら)に住んだ新羅人は優れた技術を持っていたので、砂鉄を精錬して武器と農具を作って戦役の用に供し、それ以来新羅の郷と呼ぶようになったとされている。

------------------------引用終了------------------------


④ 古代の武蔵国と新羅人の入植(参考)

・古代の武蔵國

武蔵國(7世紀後半~)は、東京、埼玉と神奈川の一部にまたがり、21の郡で構成され(うち北武蔵=埼玉県には15の郡があった)、国を治める役所(国府=国衙)は多摩郡(現東京都府中市)に置かれていた。

それぞれ郡が設置された年代ははっきりしないが、『続日本記』という歴史書によると、渡来人を中心に郡が置かれた「高麗郡」が712年(霊亀2年)、旧新座郡の前身である新羅郡は758年(天平宝字2年)に設置されたといわれている。

・新羅(しらぎ)郡の誕生

新羅郡は758年(天平宝字2年)、「日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国に移住させ、はじめて新羅郡をおいた」と記録されている(『続日本記』)。

時代は奈良時代の半ばを過ぎたころで、新羅郡は武蔵國のなかではもっとも新しくつくられた「郡」である。

当時の新羅郡の郡域は、今の朝霞市・和光市・新座市・志木市と東京都保谷市(多摩郡)、練馬区の大泉地域(豊嶋郡旧橋戸村・木樽村)が含まれていたと推定されている。

新羅郡がどのようなかたちで置かれたかは文献上明らかでないが、高麗郡が渡来人を中心に、入間郡から分かれて置かれたと推定されていので、新羅郡も地域的には入間郡を分割して設置されたと考えられる。

『続日本記』には、「…移武蔵國閑地…」(「武蔵國の閑地に移す」)とあるように、当時この地域はまだ開発の遅れた地域であったと思われる。

渡来人を中心に新しく郡を置いた目的は、この地域の開発を進めるが主な目的だったと思われる。また、74人のうち僧尼が半分をしめていることから、武蔵國への仏教の普及もひとつの目的だったのではないだろうか。ただし、新羅郡が置かれたこの地域から、今のところ奈良時代~平安時代にかけて有力な寺院跡地は発見されていないというから、確かなことはわからない。


⑤ 百済からの渡来人は琵琶湖東岸(参考)や大阪市(参考)などに入植した。


⑥ 高句麗からの渡来人は埼玉県日高市高麗あたり(参考)などに入植した。


⑦ 現代朝鮮民族(wikiより)

カトリック医学大学キム・ドンウック(金東郁)教授と慶応大学岡本真一郎教授がHLA(ヒト白血球型抗原)を分析した結果、日本人と比較すると遺伝的な同質性が低いという結果が出ている。大阪医科大学名誉教授松本秀雄は著書『日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く』で、「朝鮮民族は強く漢民族などの影響(混血)を受けており、これは中国と朝鮮との間の、相互移民や侵入などによって、北方少数民族や漢民族との混血の機会が多く、これが民族の形成に影響した」と述べている。HLA遺伝子による調査で朝鮮民族は満州族や中国東北部の漢民族と近い。 血統のルーツは現代アジア民族との繋がりは薄く、ロシアのエヴェンキ族と同一性が特に多く認められている。ユーラシア大陸内陸部から朝鮮半島への集団移住により定住したものと考えられる。